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大長編ドラえもん私的考察〜F先生の描いたもの〜(前編)

《はじめに》


先日、USTで「ドラミちゃん ミニドラSOS!!!」をみんなで見ようという企画がありました。
2012-06-11 - karimikarimi
個人的に大盛り上がりしてた余波を受けてフィードバック的な記事を書いてみます。
テーマは映画ドラえもんです。
2012年現在で、新旧のキャスト合わせ32作。
大長編ドラえもんというシリーズのテーマ変遷をざっと読み解いていこうかと。
時代性というものありますが、
根底で共通しているものも見え隠れしてるのがドラ映画の「深み」となっている。
その「深み」とはなにか。
大雑把に見ていきましょう。
あくまで私見なので当たっているかどうかは、定かではないのでそこのところだけはご了承をば。


《フェーズに分けてみる》


まずは簡単にドラ映画作品をフェーズごとに区切ってみる事にします。
とりあえず自分の感覚ではこんな感じで区切れます。


第1期:のび太の恐竜のび太の海底鬼岩城
第2期:のび太の魔界大冒険〜のび太のパラレル西遊記
第3期:のび太の日本誕生のび太とブリキの迷宮
第4期:のび太と夢幻三剣士〜のび太のねじ巻き都市冒険記
第5期:のび太の南海大冒険〜のび太のワンニャン時空伝
第6期:のび太の恐竜2006 ←Now!


本記事で語りたいのはF先生の存命していた第1〜4期まで。
5,6期に関しては未見作品が多いのであんまり語れる所がないのですが、
最後に少しだけ触れる感じでいきたいと思ってます。
これらの区切り方って言うのはおいおい語っていこうと思いますが、
簡単に言ってしまえば、F先生が作品で何を語っているかの変遷を表している区切り方だと見てください。
原作者たる藤子F先生が作品に何をこめていたのか、読んでいきましょう。


《第1期:純然たる大冒険シリーズ》

第1期のいわゆる映画ドラえもん初期作は単純明快にドラえもんたちの大冒険が描かれている。
ドラえもんたちが自分たちの知らない異世界を大冒険する」というフレーズがテーマです。
普段、町内でどたばた騒ぎをするドラえもんたちが大冒険をする。
これだけでも作品的には画期的な飛躍があります。
出崎統調に言うのであれば大長編ドラえもん=「旅」ですね。
元々、約15ページ1エピソードの作品からしてみれば、
200ページで一つの話は大長編でしょう。
だから普段、出向けないところにドラえもんたちは探検をするのです。
第1期の作品群を見ても、


恐竜:白亜紀
宇宙開拓史:遥か彼方の宇宙
大魔境:アフリカの大秘境(ヘビー・スモーカーズ・フォレスト)
海底鬼岩城:マリアナ海溝奥深くの海底


といったまさに大冒険です。
多分にF先生の知的興味が垣間見えるのがミソですね。
これらを舞台にエンターテイメントとして作劇をする巧みさは言うに及ばずなのですが…。
子供たちの興味を惹く、あるいはワクワクする舞台が選択されているように思います。
そりゃ、図鑑や知識で知っているかもしれないけど絶対いけそうにない場所ばかりですものねえ。
そこをドラえもんたちが探検するわけです。面白くないわけがないでしょう。
先ほども言ったように「ドラえもんたちが異世界を大冒険する」っていう基本は、
これら作品はまったくズレてないも実に特徴的。
ハラハラドキドキ、ワクワク、ときに涙の作品。
別れ、出会い、友情。
どれも大冒険には欠かせない要素ばかりですね。
どの作品も印象的なシーンが思い浮かばれると思います。
「恐竜」でののび太とピー助の交流、
「宇宙開拓史」でのギラーミンとの一騎打ち(原作と映画では違うのもまた一興)、
「大魔境」でのジャイアンの男気と大どんでん返し、
「海底鬼岩城」での絶望的な戦いとしずかちゃんとバギー。
どれもこれも思い出補正が入ったとしても、いいシーンばかりです。
ただ、物語のパターン的にドラえもんたちの大冒険は頭打ちになっているのもまた事実だったりします
「恐竜」で出会いと別れを描き、
「宇宙開拓史」でヒーローを描き、
「大魔境」でどんでん返しを描き、
「海底鬼岩城」で仲間の死を描いてしまった。
大冒険という命題の元に描かれるパターンは
初期4作で出尽くしてしまっている。

これは結構、重要な事ではないかと睨んでいます。
もちろん皆さん周知の通り、大長編ドラえもんは人気シリーズとして長期化するわけですが、
初期4作で築き上げたパターンをどう回避しつつ描いていくのか。
これが以後のポイントとなっていったのではないかと思います。
そういった意味では純粋に冒険活劇なのは初期4作までともいえるかと思います。
ちなみにF先生の没後以前だと監督が入れ替わり立ち代わりになっている唯一の時期であるのも、
エンターテイメントを考えた試行錯誤の故、なのではないでしょうか。
そしてその結果は第1期の最終作「海底鬼岩城」で芝山努監督が就任した事で、変容の兆しを見ることになります。


《第2期:Vs社会〜シビアな世界観〜》

第2期の最初の作品「魔界大冒険」には第1期で出尽くしてしまったパターンの対抗策として、
とあるひみつ道具が使用される事になります。
それはもしもボックス
もしもボックス - Wikipedia
この便利かつご都合主義的ひみつ道具大長編ドラ第2期の方向性を決定付ける事になります。


世界改変による社会との拮抗に巻き込まれるドラえもんたち


これが第2期のメインテーマです。
なんだかものものしいですが、簡単に言ってしまえば巻き込まれシチュエーション型が第2期の基本形です
その為、第2期の作品はどの作品にも「もしもボックス」要素を抱えたガジェットが登場します。


魔界大冒険:もしもボックス(マジで世界改変)
宇宙小戦争:スモールライト(小人化)
鉄人兵団:お座敷釣堀&逆世界入り込みオイル、ザンダクロス(鏡面世界&ロボ)
竜の騎士:○×うらない(質問すると、その信憑性100% 地底世界の発見)
パラレル西遊記:ヒーローマシン(歴史改変&ゲーム世界が現実を侵食)


といったように、どれもこれも作品を呼び込む為に存在する道具の数々となっています。
あと共通して言える事は

1.ドラえもんたちが安易にこれらの道具を使って、その世界を楽しむ。
2.しかしどの世界もドラえもんたちが原因で世界の危機に見舞われる&巻き込まれる。
3.その「世界の敵」を改善すべく、ドラえもんたちが大冒険する

という黄金パターンが繰り返されているのが特徴ですね。
そしてそれらの世界観は決まってシビアな世界でもあります。


魔界大冒険:魔法が第一義の実力社会。何をするにしても魔法が必要。
宇宙小戦争:独裁国家で自由が弾圧されている恐怖政治の小人惑星。
(しかし、平和の場合も実力があれば10歳でも大統領になれる超実力主義社会)

鉄人兵団:人間=奴隷の選民思想なロボット社会
竜の騎士:恐竜たちが独自に進化した封建社会
(人間が迷い込むと見た記憶を消されるか、地底で一生暮らすかの二択。ついでに情報統制が完璧)
パラレル西遊記:妖怪(ゲームキャラ)が人間に勝ってしまった現実


字面にするとどれもこれもキッツい世界観だ…。
ほぼ原作のままだから恐ろしいとしか言う他ないですが。
一見すれば、その世界観はどれも子供向けじゃないハードな世界観。
物語巻き込まれ型なので入り込み方はさまざまですけども、
「こんなだったら楽しいだろうな」っていう夢を与えながら、
「ちょっと待って、よく考えたらこういうことになるけどいいの?」っていう疑問も投げているんですよね。
願い事は叶ったけど、どんな事にもつらい事はあるよっていう教訓めいたものを感じます。
夢と現実というのをちゃんと対比して描いているのが第2期であるかと思います。
ゆえにトラウマシーンが散見されるのもそういった対比から発生するものではないでしょうか。
メデューサとかメカトピアのメカたちとか妖怪になっちゃったのび太ママとか。
お話的に見るとドラえもんたちの「大冒険しなきゃいけない使命感」とそういった世界改変は密接にリンクしてます。
自分たちが原因、発端、巻き込まれたからこそ「何とかしなきゃいけない」。
ヒーローであるが為に事件を解決しなきゃいけないという二律背反。
初期4作と比べても、世界観的にスケールアップしていてよりシビアな戦いを強いられている。
それらの最も身近な危機としてあるのが「パラレル西遊記ではないでしょうか。
「パラレル西遊記」という作品はF先生が体調不良の為、原作を描く事がなかったシリーズ中唯一の作品です。
(没後は除く)
なので、どこまでF先生がシノプシスを書いていたかは不明ですが、
想像するにこの世界観はF先生には描き得なかったものだなあと思ってます。
ドラえもん のび太のパラレル西遊記 - Wikipedia
あらすじは簡単に言ってしまうと、

ドラえもんのび太の手違いで遊んでいたひみつ道具のゲームキャラクターが現実の唐時代の中国(西遊記の舞台)に逃げ出してしまい、妖怪として世界を支配してしまったのをドラえもんたちが修正するお話。

です。
この話のミソは倒すべき「世界の敵」が「ゲームキャラ」であること。
パラレル西遊記の公開年、1988年当時というとファミコンが全盛期。
同年「ドラゴンクエストⅢ」が発売されており、
RPGの人気に火がつき、爆発してゆく時期でもあります。
恐らくは脚本を担当されたもとひら了さんがそういった状況を危惧して、構成されたのではなかろうかと思います。
逆にF先生がそこまでTVゲームに造詣が深かったのか?という事を考えると、
思い返すに疑問符が浮かんじゃうんですよね。
おもちゃとして原作に出てた記憶はあるんですけども。
そう考えると「パラレル西遊記」のプロットはF先生より若いもとひらさんの手によるものである可能性は高そうです。
F先生も長年児童誌に連載していたので知らないわけではなさそうですけどもね……。
調べる術がないのでちょっと分かりませんね。
ちょっと脱線しました。話を戻しましょう。
「ゲームキャラ」が「現実(リアル)」を侵食する。
これほどの恐怖はないわけです。
ある日、起きたら世界が変わっていて、身近な人がモンスターに変わっていた。
しかもそれは自分たちの手違いで起こっていた。
それを想像するだに、その恐怖は如何ばかりか。
現実が虚構に侵食されるという恐怖はまさしく、現実には起こりえない現象です。
あるとすれば、それはゲームに埋没してしまうことである。
昨今はネトゲ廃人なんて言葉も流布してますが、そういう警鐘を鳴らしていたのかなあと。
今、思い返すと感じますね。
「パラレル西遊記」の展開とは行かないまでも、
ゲーム世界が俺のリアルだっていう人がいそうなのが想像に難くない現在。
「パラレル西遊記」はRPGの世界を現実化し、世界を支配しようとする妖怪どもを倒す話です。
RPGとしてはこれ以上になく盛り上がる展開でしょう。
しかし、そこにどきどきわくわくの高揚感は皆無です。
現実はゲームのようにYes/Noで割り切れるものではなく「現実≠ゲーム」という事実が、
妖怪たちによる歴史改変という現実で突きつけられています。
作中でドラえもんが「自分の不注意で」と言っている事からも明らかで
「自分の犯した不始末は自ら始末しなくていけない責任がある」という使命感が出されていることにも注目。
もちろんドラえもんという作品の性質上、そこまで深刻に表現はされていませんが。
ただドラえもんたちが歴史に影響を及ぼしてしまった事実とその処理は悲愴感がありますよね。
これらのメッセージをドラえもんに担わせて問題提起しているのが第2期全体のテーマの解であると思います。
個人的には視聴者の身近なレベルで話を展開した「パラレル西遊記」は第2期の集大成とも言える内容です。
しかし、その「パラレル西遊記」にはF先生の姿は「なかった」のです。
巻き込まれシチュエーションの物語、さらには夢と現実を描いたシビアな世界観。
第2期で積み上げたそれらテーマを完成させたのは原作者ではなくアニメの脚本家だった。
それは当時のアニメスタッフとF先生の関係がツーカーであることを指し示す事実でありますが、
逆にF先生の手を離れつつあったんじゃないかなあとも邪推してしまいます。
さらに体調不良となったことが要因になったのか、
以後、藤子先生の作風に現れた変化のが第3期の作品群へと影響していく事になります。

というところで一旦区切ります。
続きも急いで書きますのでどうぞよろしく。

(後編へ続く)