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マンガ再読〜鳥山明キャリア後期連載作品


《はじめに》

どうもです。
ジャンプ創刊45周年記念の新連載で鳥山明先生が実に13年ぶりの連載を開始します。
これを機会に本サイトとしましては、キャリア後期のいわゆる短期連載作のレビューをしてみようかと思います。
「Dr.スランプ」や「DRAGON BALL(以下DB)」は語りつくされている感がありますが、
DB以降の短期連載シリーズはあまり語られてきてはないでしょう。
今回はその魅力を語ってみようと思います。
改めて再読してみると、DBとは違った魅力があるんですよね。
あとネットの風評で絵が劣化した、とよく言われますが自分は決してそんなことないと思っているので、
その辺りも語れたらいいなと。

では前置きもそこそこに始めていこうと思います。




【目次】

『COWA!』アウトローとマイノリティ〜》


・概要
週刊少年ジャンプ』1997年48号〜1998年15号まで連載、全14話。
DB終了後、初の本格連載。
DBの連載で疲弊した作者を考慮して、3週掲載1週休載の連載形式で連載された作品。
鳥山先生の連載作品としては初めてPC作画が導入された作品でもある。
少年ジャンプとしては異例の第一話フルカラー掲載、さらに単行本にもそのまま収録(その分、価格が少し割高)。


・解説
絵柄的には上記のPC作画導入というのがあいまって非常に実験作。
絵本調の表現を試してみたかったというコメントが単行本の作者近影で語られているけど、
それ以上にフルにPC作画をするとどうなるかという実験でもあったのかなと今読み返すと感じる。
実際、97〜99年ごろからPC作画をメインにした連載作品がいくつか発見できるので、
その潮流の始まりの一つともいえそう。
ただ当時の最新PCスペックの関係上、手書きと比べてると見劣りしてしまうというリスクは少なからずあったように思う。
なおかつDB終了後、初の連載でもあったので、DB後期のシャープで硬質な絵柄を期待してた読者には、
本作の丸みを帯びた柔らかい絵柄は非常に違和感を禁じえないものだろうと推察される。
あと、手書きでの精緻さと比べて、キャラや背景にいたるまでわりとざっくりと描かれている。
(これは絵本調を意識した結果かもしれないが、容量の問題もありそう)
PC作画になったことでスクリーントーン部分が処理しやすくなったからか、多用されているのも特徴だが、
その影響で画面が重くなっているのも難点。
新たな試みが色々されているが、それが読者の期待に沿っていたかは疑問が残ってしまう。


・再読考
単純明快な冒険&バトルものだったDBと比べても、寂寥感が見え隠れする陰のある作品に思える。
主役が怪奇モンスターの子どもなのもあって、そういったホラー要素も作品のイメージを作っているんだろう。
だが、それ以上に準主役の丸山(マコリン)のキャラクターが非常にニヒルアウトローなのもまた異質。
「手違いで誤って人を殺してしまったことが原因で、人と向き合うことが怖くなった無愛想な元力士」
というのが彼の背景なのだけど、
さくっとセリフで処理してしまう辺りのキャラに深入りしない作者特有の描き方が極めて目立っている。
物語はそんな無愛想な男が行き着いた、人間とおばけ(モンスター)が共存する村に起こったある出来事が発端で、
吸血鬼のパイフーとおばけのホセの子ども二人と男が旅をするロードムービー
田舎では人間とおばけが共存しているけど、旅の途中の都会ではやはり忌み嫌われている存在で差別もされている。
一方で悪事を働いているのは人間の方が多いという厭世観が滲んでるのは時代背景が影響してるのかも。
あと「まっすぐに生きる者の純粋さ」という要素がクローズアップされているのも多分今作から。
人間に対しての厭世観、というのは実はDBのセル〜魔人ブウ編辺りから見え隠れしていて、
連載の疲弊から来る作者の価値観の変化にも取れる。
(だからこそ、ミスター・サタンが「人間」としてクローズアップされているんだと思う)
この作品においても、メインの物語の裏側に「マコリンの解毒の物語」が配置されていて、深みを与えている。
福本伸行作の「無頼伝 涯」に人間の屈折を折れ曲がった鉄パイプに例える下りがあったが、
その折れ曲がった鉄パイプこそがマコリンなのだ。
「無頼伝 涯」では「少年犯罪」などがメインだったので苛烈に矯正させる方向へ向かってしまったが
本作における鉄パイプ(マコリン)は折れ曲がったまま、生きてきた。
世間の目、また自分がいたたまれなくなって、孤独に生活することを選び、村の外れへと住み着いた。
かたや村社会のおおらかさも相俟って、モンスターたちは優しく受け入れられて生活している。
鳥山作品において、小村とその在住者たちというのは非常に重要なモチーフであるが、
その中でもマイノリティであるモンスターの子どもたちと旅をすることでマコリンは村との交流を重ねていく。
大人と子どもの構図である一方で、
その実、アウトローとマイノリティという少し社会から外れた存在同士の物語でもあるのが、
本作の特筆するところだろう。
パイフーたちとの旅を経て、ニヒルなマコリンも孤独から村に許容される幕引きで物語は締められている。
本作を一読すれば、最初と最後でマコリンの状況が変化しているのが分かると思う。
モンスターと言う村のマイノリティコミュニティによってアウトロー社会と接続される
鉄パイプは折れ曲がった部分すらも受け入れられ、再び人と向き合うことが出来た。
そんなビターでハートフルな物語なのだ。

『カジカ』ドラゴンボールのないDRAGONBALL


・概要
週刊少年ジャンプ』1998年32号〜44号まで連載。全12話。
前作から僅か17週後に連載された。
そのスパンの短さには今思うとびっくりもしてしまうが、
本作は再び冒険活劇に戻った作品になっている。
そういう点ではジャンプ読者のニーズに合わせた作品ではあると思われる。


・解説
恐らく鳥山作品の中では評価の低い連載作品だと思われる。
作画面は前作に比べてもぐっとDB連載時のシャープさが戻った。
だが珍しく作画の荒れが目立つ作品でもある。
白抜き、キャラのみのコマもかなり多く、画面密度もけっして高いわけではない。
作者のコメントで「(一人でやるのは)かなりしんどい」ともあるので、
製作工程的には色々模索してたのではないかと推察も出来る。
全体的に異質だった前作からの揺り戻しを感じるせいか、
硬軟どっちともつかない中庸な絵柄になってしまっている。
これもまた「劣化」といわれてしまう所以なのかもしれない。
総じてみると全盛期からキャリア後期に移り変わるための過渡期の作品といえる。


・再読考
本作を読んだ事のある人ならば、十中八九こう言うだろう。
「これって、DBの焼き直し?」
確かにその通りなのだ。
この物語を構成するキャラのモチーフは明らかにDBだ。
カジカ=悟空
サヤ=ブルマ
ドンコ=ウーロン
イサザ=ヤムチャ×ベジータ
そして物語は「『竜の卵』を巡る旅」であること。
ここまで来るとかえって潔い気がしてしまう。
とはいえ、この作品が「焼き直し」であったり、「劣化DB」なのだろうか?
「カジカ」という作品を描いたのには何か目論見があったのではないか。
と、邪推もしてしまうのだ。
鳥山先生本人が自作について語る、ということはほとんどない。
むしろ皆無といっていいだろう。
単行本の発言や短編集に収録のコラムだったりを見る限り、
作者本人があれこれ語るのは本意ではない、というのが恐らくスタンスなのだろう。
だからこれから語ることも、筆者の邪推であることを踏まえて語ろうと思う。
では、この作品をどう評価するか。
総合して見れば、「過渡期」の作品だと言い切ってしまっていいと思う。
他のどの鳥山作品よりも完成度の甘さが目立ってしまっているのは否めない。
しかし物語の面ではどうか。
前述したように、その多くのモチーフがDBを想起させるものとなっているのは間違いない。
カワ族という民族はサイヤ人を思い浮かべてしまうし、
ドラゴンが物語のキーワードになっているのにはまさしくいかにも、といった感じだ。
だがふと思い返してみれば、元々DBは「冒険活劇」として始まったのだ。
その路線では人気が出ず、それならばと悟空を全面にフィーチャーすることで、
バトル漫画へと作品の様相が変わり、空前の大ヒットを飛ばすことになるのは周知の通り。
ジャンプを600万部雑誌へと導く原動力になった一方、
作品は本来の物語が形骸化してしまい、
物語における「ドラゴンボール」の存在意義もただのアイテムと化してしまった。
「カジカ」はその辺りの反省があって、描かれた物語なのではないだろうか。
意識的にか無意識にかは分からない。
だが、孫悟空の物語」としてのDBを終了させた作者が改めて、
ドラゴンボールのない『DRAGON BALL』」として作られた物語が「カジカ」なのだ。
そのように見ると「竜」そのものを巡る物語にした辺り、かなり明確なのではと筆者は考える。
「願いをなんでも一つ叶える道具」としてのドラゴンボールの、物語上の都合の良さは誰しもが知っていることだろう。
だから「カジカ」ではオミットした。
「命の丸薬」という似たプロップが出てくるのだが、
物語的に機能させているのでご都合主義には陥ってない。
少なくとも中期〜後期のDBのような機能不全にはなっていないのだ。


またストーリーラインにおいても初期DBを髣髴とさせるあらすじに一枚、ある要素を噛ませている。
それが「人間の善悪」の問題である。
前項でも少し説明した後期DBに顕著な「人間社会への厭世観が入り込んでいるのだ。
主人公、カジカが使うカワ族の秘術として「悪の心を抜き出す」というのが描写として出てくる。
もちろん悪の心を抜き出されると善人になってしまうのだが、
少なくとも「カジカ」の作品世界では善人が必ずしも住みやすい世の中ではない
こと人間社会では人は生きるために仕方なく選択する事を行っている。
時にそれが「罪」になることもある。
この作品の登場人物にも同じことが言える。
サヤ(ドロボー)、ドンコ(日和見な情報屋)、イサザ(殺し屋)とカジカ周りの登場人物は
やっている事が善人とは言えないし、
カジカ自身も物語が始まる以前に「呪い(罪)」を背負って、登場しているのだ。
悪の心を抜き取られて、善たりえるのは動物だけであり、人間は心に善悪を背負っている。
善と悪の狭間を行き交いながら、ヒトは社会を生きていく。
なんのことはない、ただただ当たり前のことを描いているのだ。
それを意識させず、冒険活劇としてきちんと読ませる作りになっているにはただ脱帽である。


物語を「一つの冒険活劇」として纏めるという面においては「カジカ」は成功している。
それがDBという空前の大ヒット作を生み出した功績によるものなのだから、皮肉なものだ。
「カジカ」という物語は「週刊連載作品の歪み」が浮き彫りになっているのだと思う。
漫画は人気商売である。
人気が得られれば、作品は長期連載となる。
新たな敵、新たな展開を生み出すために、
必要ならば後付けで当初の方針を翻してまでも、連載は続かなければならない。
「カジカ」はそういった所から、隔絶した状況で成立した作品でもある。
続けさせるのであれば、いくらでも続けられるフォーマットを持つ作品だろう。
鳥山明というネームバリューで商売が成立しているからこそ、自由に描ける。
裏を返せば、「絶対売れる」という保障がなければ、自由に描けないという歪み。
DBは全42巻。
カジカは全1巻。
筆者は表裏の関係にある作品同士だと感じている。
それ故に「幸せな連載の形」というのを深く考えさせられるのだ。
「カジカ」は「過渡期」の作品である。
それは間違いない。
だが、鳥山作品の物語性の深化という点では「COWA!」ともに注目に値する作品だと、
筆者は再読して感じた。


『SAND LAND』〜鳥山版「紅の豚


・概要
週刊少年ジャンプ』2000年23号〜36・37合併号まで連載。全14話。
2年ぶりの週刊連載。
間にこの後説明する「ネコマジン」の前期シリーズを挟んで、発表された。
砂漠化した土地での老人と悪魔たちのロードムービーというモチーフは
前々作の「COWA!」を彷彿とさせる。
その渋い物語と戦車などのメカ描写、作品世界の筆致は全キャリア中、屈指の出来であり、
DB以後の作者の代表作として評価を得ている作品だろう。


・解説
名実ともにキャリア後期の代表作だろう。
PC作画に移行してからの不安定だった絵柄は本作を完成として、以降に続く画風となっている。
実際、モノクロ原稿における背景画や自然物、プロップ、作品のメインとしてのメカの作画は、
DB以上に精緻に書き込まれている印象が強い。
特に植物や動物などは細部にいたるまでの書き込みがされていて、イラストとして非常に高い密度。
またキャリア後期を通じて批判の対象になっているカラーだが、これも一つの方向性が出ている。
ビビットな色彩を使って「イラスト」を描く事から、「対象物の質感」を出す塗り方へ。
なので色の明度を落とした、より本物に近づける(鳥山先生のフィルターを通した)塗りだと言えるのではないだろうか。
物語の方も「老人と戦車(メカ)」といった作者が得意とするモチーフが使われており、
作画の充実度とともに、渋い物語が展開されている。
氏の連載作の主役の中でももっとも高齢なラオ。
舞台は環境変化に伴い、砂漠地帯の広がった乾いた地球。
ラオと魔族が協力し、どこかにあるはずの幻の水源を求め、旅をする物語。
その姿は老いたといえど、私利私欲のためではない、人々のために活躍する英雄の姿だろう。
力ではなく意志の強さによって、英雄を描くと言うことに成功した作品。


・再読考
老人と戦車(メカ)。
これで面白くならない鳥山作品はないといっても過言ではない。
この作品の面白さを決定付けているのは、間違いなく主役のラオだろう。
いや、ラオの意志こそが物語を突き進ませる原動力となっているのだと言える。


鳥山キャリア後期作品は短期連載ながら物語に深みを持たせた上で、
本編を描く、という返って贅沢な物語に仕立てあげられている。
「COWA!」ではマコリンのバッググラウンド。
「カジカ」では物語そのものの構造と可能性。
恐らくはPC作画を一人でやっている事による「シナリオの省略」によって、
発生しているものだろうと考えられる。
すべてを一人でやってしまうから、連載を「長期化」できない。
故に短期連載にならざるを得ず、
描かれるべきものと描けないものの取捨選択がはっきりと出る。
長期週刊連載であるならば、1エピソードとして語られるだろう事実も、
短期連載だから「物語」の中に落とし込まなければならない。
それが結果的に作品の「奥行き」になっているのではないだろうか。
例えばこんな話がある。
藤子不二雄A先生の名作「まんが道」において、手塚治虫との邂逅の一説。
当時「来るべき世界」の執筆中だった手塚治虫にはるばる会いにきた才野と満賀の二人が、
「来るべき世界」を一冊の本に纏め上げるために
1000ページの作品を300ページに圧縮しているという手塚治虫の様に驚愕するという場面。
まんが道の中でも特に印象的なシーンの一つではあるが、
これと同じことが鳥山先生の短期連載作にも発生しているのではないだろうか?
一つの物語を構成するためにエピソードを「圧縮/省略」してしまう。
「SAND LAND」に照らし合わせてみれば、
ラオの背景もそうだし、
ゼウ大将軍の支配実権を手に入れる顛末や、
ベルゼブブたち悪魔の歴史とか、
スイマーズたちなどの反乱分子の話など、
語られないエピソードは拾ってみてもかなり多い。
それら全てのエピソードを、きちんと用意されているのかは怪しいところだが、
少なくとも物語で語るべき必要のないものは省かれている。
このように読者の想像の余地が残る語り口こそがやはり物語の面白さなのだろう。


話がそれてしまったので閑話休題
ラオに話を戻してみれば、
彼が「義侠心に厚い正義の人」というのが読み進めるのにつれて、分かってゆく。
もちろん描写で語られないバックグラウンドが存在しているが、
積極的に自ら語ろうとはしないし、作者が強制的に回想に入るわけでもない。
けれど情報が出てくるたびに、真実が明らかになってくるのだ。
ラオの主張は一貫している。
「水も満足に買えない貧困層を救うために幻の水源を見つけ出す」である。
彼の純粋な意志が、周囲を動かしていく。
この意志の強さ、純粋さを持って、自分なりの正義をなそうとする。
忌み嫌われている魔族たちに協力を頼み込んだのも、その「正義の一心」以外に動機はないだろう。
彼は「一人の人間」として現状を打破すべく行動した。
一人の人間の描写。
同じく一人の人間として後期DBの物語を下支えしたキャラがいる。
ミスター・サタン
サイヤ人出現以降、飛躍的にパワーインフレが激しくなったセル編で、
いまさら「世界チャンピオン」という肩書きで初登場、
魔人ブウ編において、まさしくキーパーソン的役割を担ったあのおっさんである。
筆者は後期DBにおいて最重要キャラだと感じている。
DBのキャラがほとんど超人的能力を持つ中、
もっとも読者(=常人)に近い立場で描かれているからだ。
性格も非常に小市民的で俗っぽい。
もちろん悟空たちとは比べ物にならない弱い(それでも普通の人間よりは強いんだろうが)。
しかし、どこか憎めないのだ。
時に理不尽に銃で撃たれた犬に悲しみ、撃った人間に激昂する。
それでいて、ブウが犬を治すと本気で喜んだりする。
自分より強大なものには恐れおわななき、
話が通じる相手には交流も出来る。
要するに「人間くさい」のだ。
ここがサタンと悟空たちの大きな差といえる。
いわゆるヒーローにも種類がある。
「戦闘力」で打ち勝つヒーロー、
「意志や影響力」で鼓舞するヒーロー。
もちろん前者は悟空たち、後者はサタンだ。
後期DBにはこの二種類の「英雄」が存在していた事になる。
パワーヒーローはまさしく神話上の「英雄」であるが、
ウィルヒーローは社会上の「カリスマ」なのだろう。
この違いが物語に良く現れているのが、ブウ編クライマックスの元気玉のシーン。
悟空の声が「人の支配する世界」には届かず、サタンの声だと「届く」。
神話の英雄より現代のカリスマの方が共感を得るという、
人間社会を上手く表した場面だ。
さて、ラオはどちらであろうか。
なるべくネタバレは避けることにするが、
彼の場合は「反体制の英雄だった一人の男」だと思う。
「SAND LAND」の世界は水を牛耳る王国で特権階級たちが甘い汁をすすっている社会だ。
人民を省みない政治体制に対しての、
人民の声に耳を傾ける英雄、という位置にいた人間。
しかし出る杭は打たれ、希望が潰えてしまった世界の物語である。
そこに「ラオ」という一人の男として、立ち上がった。
英雄という舞台から引きずり降ろされたが、再び正義の意志を持って立つ人間になった。
ミスター・サタンは祭り上げられたヒーローだが、最後の最後で真のヒーローになった。
ラオとサタン、その描きに差はあれども、「人間」として描かれているのが分かる。
サタンは英雄という立場の人間の人間性を、
ラオは行き場のない社会に一人の人間として立ち向かう「英雄性」を、
それぞれ体現している。
この二人の異なる英雄のどちらにも言えることは、
「腕力」だけの英雄ではないという事だ。
力で圧倒するのではなく、名声や意志の強さの波及によって、
人々に「希望」を持たせるという所で「英雄」たりえているのである。
ラオにいたっては、その「希望」は誰のものでもなく、全員のものである位の勢いで、
滅私しようとする辺りが非常に格好良いのだ。
人知れず、世界を救うヒーローというのはDBでも描かれたモチーフであるが、
それを悟空のような超人ではなく、ラオのような老成した人間で描いたのが物語を決定付けている。
かつて「超人ヒーロー」を描いていた漫画家が「等身大のヒーロー」を描いているのだ。


総じて見れば、鳥山先生の好きなものしか揃ってない、「趣味」的な作品でもある。
だからこれは鳥山明における紅の豚だ。
老人と戦車、
かつての英雄が人々のために、閉塞した社会に打ち勝つ物語。
彼の意志の強さが伝播し、協力を得ていく。
もちろん本作での魔族のような、
まっすぐに生きるマイノリティの描きも好きなモチーフなのだろう。
面白くならないわけがない。
無論、それを面白く、そして分かりやすく伝える術があって成立するものだが、
鳥山明という作家は「DB」のような大ヒットを飛ばすエンターテイナーである。
長期連載が事実上、不可能だとしても、
このような芳醇な短期連載が読めるのであれば、読者として嬉しい事はないし、
作家として未だ進化を続けていることを確認できるだけでも、
ファンとしては幸せなことではないだろうか。

ネコマジンセルフパロディによるデトックス



・概要
週刊少年ジャンプ』および『月刊少年ジャンプ』1999年より2005年にかけて不定期掲載。
99年に少年ジャンプに2度掲載された「ネコマジンがいる」シリーズ、
03年に同じく少年ジャンプに掲載された読み切り「ネコマジンみけ」、
さらに平行して03〜05年にかけて月刊少年ジャンプ末期に掲載された「ネコマジンZ」シリーズがある。
現在、「ネコマジン完全版」として1冊の本に纏められている。
鳥山作品としては不定期シリーズという珍しい形態をとっているため、
絵の変遷がよく分かるシリーズでもある。
またDBのパロディが多く含まれていることでも有名。


・解説
異色、というより久々にギャグに回帰したシリーズといえるだろう。
少年ジャンプ本誌においての短期連載と比べても、
肩の力が抜けていて、けっこう砕けた感じのエピソードが多い。
どの作品も都市部から遠く離れた田舎での物語であり、起こっている出来事も凄く局地的。
99年の「ネコマジンがいる」シリーズではあまり顕著ではないが、
その後の「みけ」や「Z」シリーズは田舎である所の開き直りを感じさせられる。
作画についても99年と03年以降ではそのクオリティが明らかで、
PC移行後のカラーにいい印象を持たない人でも、
モノクロ原稿に関して言えば、DB以上の質を実感できるはず。
少なくとも「みけ」や「Z」シリーズの絵を見て、
「劣化」したと感じることは恐らくないだろう。


・再読考
かつて鳥山先生はパロディについて以下のように語っていた。

パロディはおもしろいと感じる人が少なくなるだけだからなるべくやらんように!!
 たとえば「ステーキのあさくまは安くておいしい」といっても笑わんじゃろう!!
 これはわしの近所の店のことじゃ
 要するにパロディというのはこれと同じじゃ
                               -鳥山明のヘタッピマンガ研究所P132より抜粋

要約すれば、パロディ=内輪受けというのが先生の主張だ。
なるほど、パロディ小説、パロディ映画、パロディ漫画、形式は様々あるが、
どれもファンがファン同士で楽しみあうというのが主眼なので、
作品を知らないだろう、不特定多数の読者には受けが悪いからやるべきではないという意味だろう。
30年以上前の本からの引用なので、現在に通用するかは定かではないが、理解は出来る。
少なくとも衆目を集める媒体に執筆するということは、そういうことだろうからだ。


さて、ネコマジンだが、
「DBファンに向けたセルフパロディというのと、
「DBを笑い飛ばす事でコンプレックス打破」という、
2つの側面が存在していると感じる。
この方向性は主に「ネコマジンZ」シリーズに顕著だ。
ネコマジンがいる」「ネコマジンみけ」は、
Dr.スランプ」のようなど田舎での狭い出来事で構成されており、
特に「みけ」はシリーズ中最も「Dr.スランプ」よりのストーリーで番外編の側面が強い。
ネコマジンがいる」は「Z」のように顕著ではないが、
DBっぽい描写をあえて、何も起こらなさそうなど田舎で無意味に展開させて、ギャグにするという
見方を変えれば、自虐的な描写を行っている。
再読して強く思ったのは、これは「DBという呪縛からの毒抜き」なのではないかということ。
いまや商業的にビッグコンテンツ化したDBという作品との距離感を鳥山先生自身が見つめ直したのだ。
かつて「自分の中でDBという物語は終わった」とまで言わしめたほどにDBは疲弊した連載だった。
その後も短期連載など、仕事を続けていていたが、
依然としてパブリックイメージとしてはドラゴンボール鳥山明なのだ。
だから「開き直った」のだと思う。
未来永劫、そのパブリックイメージは拭えないなら、笑い飛ばしてしまえ。
という風に、距離を置いていた作品との関係をあえて近づけたのだと思う。
そこで前述の「パロディ」の話に戻る。
日本的にも、世界的にもDBはビッグコンテンツで、衰えぬ人気を誇っている。
ファンも多い。
しかし、DBそのものは完結してしまっている。
ではDBファンが楽しめるものは、あるいは作者の側から出来ることはなにか、を考えると、
セルフパロディという方向が出てきたのではないだろうか。
「DBを遊びつくして、笑い飛ばす」
これが「ネコマジンZ」シリーズのコンセプトなのだろう。
故にネコマジンがオレンジ色の胴着を着たり、超ネコマジンに変身できたり、
悟空らDBのキャラや、パロディキャラが大手を振ってゲストとして登場するのだ。
ファンがファンの間で楽しむものとしての「DBパロディとしてのネコマジン
そして鳥山明自身が「DBとの距離感を改めたという意味でのネコマジン
この二つの意義があったと筆者は「ネコマジン」というシリーズを考える。
ここでの「開き直り」が2013年公開の映画「ドラゴンボールZ〜神と神〜」で、
鳥山明が脚本に深く関わるという事へと結実したのだと推察できる。


ネコマジンのキャラクター像は非常に捻くれている。
特有の横柄さというか、ガメツさというか、セコさというか、そんなものを感じる。
一方で、キャラビジュアルからは憎めない人懐っこさも感じられる。
キャラは作者の投影であるというのはよく言われることだが、
ネコマジンもやはり鳥山明という人間の一つの側面が映っているのかもしれない。
そう考えると、嬉々として超ネコマジンになったり、悟空とバトルしたりする姿は、
DBという作品と作者の今の距離感がうかがえて、
なにか微笑ましいものを感じるのだが、いかがだろうか?

《最後に》

DB終了以後の連載作4本を再読し、改めて鳥山作品の面白さに気付かされた。
そして、やはり凄いとも感じた。
DBのような毎回毎回のスペクタクルな展開を追う物語ではなく、
どれも一本の物語として相応に読み応えのある作品になっているのだ。
それも大人になってから読み返すとさらに味わい深くなっている。
かつて手塚治虫が「新宝島」で漫画に映画的手法で演出をすることで、衝撃を与えた。
くしくも鳥山明もまたDBという長い長い週刊連載を経て、たどり着いた先が、
「一冊の物語」としての読み応えだったのは何かの符号かもしれない。
全1冊。
願わくば、すぐに読めるのでぜひ読んで欲しい。
DBから違った方向に発展した鳥山作品を味わえるので。
今回の記事はそんな趣旨で、書かせていただきました。


最後に
13年ぶりの連載新作。
恐らく短期連載だろう。
しかし、不安はない。
鳥山明という漫画家の新作が読めるだけで、凄く楽しみだ。

《おまけ:DB以降の作品リスト》

※おまけにファン向けにというか、DB以後の作品リストをWikipwdiaを参照してまとめておきます。
 「鳥山明○作劇場Vol.4」発刊祈願という所で。
それではまた。

宇宙人ペケ週刊少年ジャンプ』1996年37・38合併号、39号全2話
※完全アナログ作画での最後の作品
TOKIMECHA週刊少年ジャンプ』1997年1997年3・4合併号〜7号全3話
※初のフルCG作画。以降の作品は、全てPCで作画 
魔人村のBUBUL週刊少年ジャンプ』1997年22・23合併号
COWA!週刊少年ジャンプ』1997年48号〜1998年15号全14話
※3週掲載1週休載の連載形式
カジカ週刊少年ジャンプ』1998年32号〜44号全12話。
ハイギョのマヒマヒ週刊少年ジャンプ』1999年4・5合併号
ネコマジンがいる週刊少年ジャンプ』1999年22・23合併号
ネコマジンがいる2『週刊少年ジャンプ』1999年37・38合併号
SAND LAND週刊少年ジャンプ』2000年23号〜36・37合併号全14話。
ヒョータム 『e-ジャンプ』2000年1月18日増刊
ネコマジンZ月刊少年ジャンプ』2001年6月号
天使のトッチオ(絵本)2002年
ネコマジンZ2月刊少年ジャンプ』2003年9月号
ネコマジンみけ週刊少年ジャンプ』2003年37-38合併号
ネコマジンZ3月刊少年ジャンプ』2004年3月号
ネコマジンZ4月刊少年ジャンプ』2005年1月号
ネコマジンZ5月刊少年ジャンプ』2005年2月号
こちらナメック星ドラゴン公園前派出所超こち亀』2006年 ※秋本治との合作。
CROSS EPOCH週刊少年ジャンプ』2006年12月25日号 ※尾田栄一郎との合作。
Dr.MASHIRITO ABALEちゃん月刊少年ジャンプ』2007年4月号
さちえちゃんグー!!ジャンプスクエア』2008年5月号 
※原作担当で作画は桂正和。共作短編集『カツラアキラ』収録
おいしい島のウーさま2030マガジン『最終戦略 バイオスフィア』2009年
JIYA -ジヤ-ヤングジャンプ』2010年2・3合併号〜6号全3話。
※原作担当で作画は桂正和。共作短編集『カツラアキラ』収録
KINTOKI-金目族のトキ-週刊少年ジャンプ』2010年50号
※完全新規作品としてはこれが最後の漫画作品
銀河パトロールジャコ週刊少年ジャンプ』2013年33号~44号全11話。 ※最後の連載作品、遺作。

赤字は書籍未収録作品。