In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)

ジャンル不問で好きなものを最小単位で語るブログ

アニメ「寄生獣〜セイの格率〜」を考える。

突貫企画です。
年の瀬に書かなきゃいけない事が立て込んでいるにも拘らず、やらなきゃいけないと感じたので。


今回は筆者のTwitter発言を交えつつ、寄生獣〜セイの格率〜」について語りたいと思います。
自分は原作もアニメ版も好きです。
ただ原作とアニメ版とは「味」がかなり違う作品になっているなと感じています。
アニメ版についてはその改変部分について、かなり賛否が分かれている現状。
自分は改変部分を「改悪」じゃなくて「改善」だと思って見ています。
その辺りを解説できればと思いますのでお付き合いいただければ。



《岩明作品の作風とアニメ版との差異》


まずは自分のTwitterでの発言をご覧いただこう。


ひとまずここまで。
とりあえず語りたいことは引用に書いてあるが、解説してゆく。
ここでは「原作」と「アニメ版」の違いについて。
非常にざっくりとした説明になってしまうけど、その「違い」というのは原作者の作風に起因している。
上の引用でも説明している通り、
岩明均先生の作風は「傍観」と「俯瞰」に発生するドライな視点だと思う。
鏡に映し出されたような感覚、
あるいは防犯カメラの映像のような、感情が全く乗って来ない事象だけを捉えたような描写。
描かれる画面に対して非常に無感情さが漂う一方で、キャラの感情は揺れ動く。
岩明作品におけるキャラはあくまで物語の「演者」であり、そこに作者の意志や意図は見え隠れしていない。
テーマと状況を設定し、演者がどのように動くかの思考実験劇としての「物語」といえば良いだろうか。
そういう点では作者は「キャラクター」を突き放しているともいえる。
岩明先生の作風だと筆者が認識している「傍観」と「俯瞰」がここでも生きているのだ。
一番最初の引用における、「同舞台上に観察者と演者が介在している」と言ったのもつまりそういうことなのだ。
岩明先生自身は「物語」を「俯瞰」するが、
作中内においても「進行する物語の観測者」が「演者」として存在する。
先生の最新作「ヒストリエ」の主人公、エウメネスの役割はまさしく「物語の観測者」だ。
エウメネス自身の物語もあるにはあるが、彼の課せられた役割は「アレクサンドロス大王に仕えた書記官」である。
作品はエウメネスの生涯を追う一方で、歴史上で彼の追った物語が展開されるという体をとっている。
この傾向は「寄生獣」の頃より顕著なのは上記で引用している呟きでも明らかだ。
当初は寄生獣(ミギー)が人間を「傍観」、「観測」しているが、
後半にいくにつれて、寄生獣の視点を持った人間(新一)が寄生獣を「観測」する。
それに伴って、泉新一という「人間の物語」が改めてフォーカスされるという作りなのである。


対して、アニメ版は最初から「泉新一」をフォーカスした物語なのだ。
物語の中心、あるいはテーマの中心にいるのが「泉新一」という「人間の物語」。
原作は「寄生獣」という「ヒトに対する上位種」を設定した舞台の「物語」である。
なのでその状況下に生きる主人公、「泉新一」のパーソナルな物語ではない。
あくまで泉新一も作品の多角的なテーマの演者として語られる存在に過ぎない。
だがアニメ版はアニメにおける様々な制約(一番大きな問題は尺の問題だろう)から、
「泉新一」をフォーカスすることで「寄生獣」という作品を語ろうとしている。
ここでまた引用を使いたい。
1〜3話までを見たインプレッションと関連する呟きである。




ここまで引用。
筆者は「寄生獣」に近似している作品として「デビルマン」を挙げている。
デビルマン」は相克する人間の業(カルマ)を壮大な神と悪魔の戦いに仕立て上げた作品だ。
一方「寄生獣」も同じく人間の業を描いているがこちらはよりミクロな視点である。
永井豪先生は近作「激マン!」で「デビルマン」を「戦争の狂気を描いた作品(大意)」としている。
寄生獣」は普通の都市生活に潜む不条理として、
言ってみれば「テロリズム」的要素が含まれているという見方が可能だ。
また「デビルマン」は不動明デビルマンに変貌する事でヒロイックな活躍をするが、
寄生獣」においては泉新一にそのヒーロー性は皆無でミギーと融合し、変質しても人間として踏み止まらせている。
そうして作品と作品とを対比して見ると、
デビルマン」の方がより状況と感情(戦争と狂気)
寄生獣」の方がより存在(寄生獣とヒト)を、
フィーチャーした作品だと分かる。
このように描かれる視点の差異が浮き彫りとなるわけだが、話を「アニメ版」に戻そう。
寄生獣」という作品は「存在」を描いた作品としたが、突き詰めると深遠なテーマである。
生物の種族として「ヒトとは?」、「寄生獣とは?」というのがテーマだ。
切り取れば、様々な切り口が出てくる命題であり事実、作中でも様々な要素が散りばめられている。
だが映像化する際、それらを全て拾い上げようとすることは不可能である。



ここまで駆け足ではあるが、作者の作風と原作を筆者なりに紐解いてきた。
寄生獣」は「人間の存在意義と業を寄生獣(と新一)を通して俯瞰的に観測した作品」である。
アニメ版は、原作の中より泉新一という「キャラクター」をピックアップすることで、
作品で語られる「存在(人間&寄生獣)」を強調しようとしている。
アニメで「存在」を語るにはまず「キャラクター」を語ることである。
それは原作とは明らかに異なる視点であり、アニメの特質でもあるだろう。
アニメーションの語源はラテン語の「アニマ(生命、魂の意)」から来ている。
ゆえに演者(キャラクター)に生命を吹き込まなければならない。
原作は「存在」を俯瞰的に総括した作品であるが、アニメ版は原作よりさらにミニマムな視点に削ぎ落としたのだ。
一個の「生きる人間(キャラ=演者)の物語」なのである。
そしてその物語を観測するのは、紛れもなくTVの前の視聴者であり、
作中の演者は映像の中で「生きている」ので観測者的役割は原作より希薄になっている。
あのミギーですら、当たり前だが物語に「生きている」のだ。
アニメ(映像)になった瞬間、岩明先生の作風である「俯瞰」と「傍観」は視聴者へとほぼ委ねられた。
原作とアニメの大きな違いはここだろう。
この新しい視点を補強するためにデザインされたのが、アニメにおける改変部分だと筆者は推察する。


《彷徨う雄性と抱擁する母性》


引き続きこの項ではアニメ版の改変部分について語って行きたい。
再び呟きをごらんいただこう。
4〜10話を見たインプレッションと関連ツイートである。
勢いに任せたリビドー溢れる箇所があるがご容赦いいただきたい。



以上、引用終わり。
アニメ版における改変部分は大まかに


・新一の外見(眼鏡→原作ビジュアル)
・里美、加奈のビジュアル変更
(どちらも現代っぽいビジュアルに。特に加奈。前時代的なスケバンから今時のギャル系黒髪女子高生へ)
・加奈の新一への恋心の付加
・女性キャラ描写の増加
・浦上の逮捕前のビジュアル追加


などなど。
細かく見ていくと、シナリオの省略など多岐に渡る。
ここで語りたいのは主に女性キャラについて。
恐らく原作とアニメで大きく異なる部分だと思われるからだ。
引用の言及もほぼそこに終始する。


その前にまずアニメに付けられたサブタイトル「セイの格率」について考えたい。
格率という言葉をネットで調べると、カントの哲学用語であると出てくる。

「格率」とは自分の持つ行為規則と定義された。
この格率の普遍化が可能であったならば自分は道徳的であるということになる。
そして普遍化可能な格率はそれが法則として成り立ち、それは全員がその法則に従うという形で秩序が形成される
と、考えられるような行為規則である。
以上、wikipediaより引用


つまり一個人の行動規範が社会全般に反映可能であるならば、
それは道徳、あるいは法律となり、ひいては社会秩序が形成できる規則という事らしい。
ここに「セイ」という語句が加えられる。
「セイ」とカタカナにしたのは「正」であり「生」であり「性」であるという意味合いなのだろう。
これらの問いかけは原作においてもそう変わるものではない。


上記で記したとおり、「寄生獣」の比較作品は「デビルマン」だと筆者は考える。
デビルマン」は激変する世界に不動明が巻き込まれていく物語。
対して「寄生獣」は世界が激変する物語ではない。
ちょっとした「異変」が波紋となって拡散する物語である。
その状況を「傍観」するのが原作であるならば、
アニメ版は状況に身を投じていく物語なのだ。
そこで重要視されるものこそが「格率」なのである。
もちろん物語の中心人物である泉新一の「格率」だ。
はたして新一の「格率」は「正」しいことなのかというのがまず問われている。
先ほども説明した、アニメ版が「泉新一の物語」なのはこの辺りも所以だろう。
「格率」で説明される自分、つまり個人とは泉新一である。
物語自体が泉新一の「格率」を通して、原作の持つテーマを語るというつくりなのだ。
それゆえに新一の「成長」が不可欠になった。
この辺りもデザインの変更に起因していると思われる。


他方で「寄生獣」は「デビルマン」と同じく「雄性」の物語だと考えられる。
原作を読んだことがある人ならおそらく分かっていただけると思うが「無骨な物語」なのだ。
動物的な本能の描きと感情や理性が拮抗する作品であるのは言うまでもないが、
筆者はそこに男性的なニュアンスやルサンチマンを感じる。
どこで雄を誇示するかということかもしれない。
ミギーをはじめとする寄生獣たちは性差はなく、思考と本能が基本的に一致している。
ヒトもまた生物学的に見れば「獣」だ。
生きるための欲望や欲求があり、時に本能に動かされてしまう場合もある。
本能に対するストッパーとして「理性」が存在する。
新一はヒトの雄がゆえに本能と思考にズレが生じるのだ。
動物的本能と人間的理性が彷徨う一方で、物語後半ではヒトと寄生獣の間でも彷徨ってしまう。
原作でも、アニメ版でも新一は一個の「雄」を誇示する事に対し「獣性」か「人間性」かでの「格率」も問われている。


ここまで説明して、ようやくアニメ版の女性描写について語りたい。
アニメ版を眺めていると原作に点在する母と子の描写と男と女性の描写を強調しているように感じる。
例えば田宮良子の母親が「気付く」シーンが新一の母親の息子に対する疑心暗鬼にリンクしているし、
オリジナルの場面で言えば、里美とクラスメートの会話を補強していたり、
11話での加奈が「とある場面」に出くわしてしまうなどだ。
女性キャラのデザインの方も原作連載開始当初の80年代末の風俗から2010年代の風俗にリファインされた。
何度も繰り返すがアニメ版は原作の要素を抽出し、「泉新一の物語」として捉え直している。
言ってみれば、「ビルドゥングスロマンス(教養小説)」の趣が非常に強くなっているのだ。
泉新一が成長し自己を形成し、一個の人間(大人といって良いかもしれない)になるまでを描くドラマである。
それ故に「母と子」の問題やもっと根幹的に「雄と雌」の問題に整備された。
引用のつぶやきに語っているように、
「母親の庇護から巣立ちした雄がつがいになる雌と時に不条理な社会に寄り添い、支え合う物語」
であり、原作にある「俯瞰」「傍観」の視点を利用した「ラブストーリー」として見る事が可能になっている。
無論、田宮良子という寄生獣側の「種として母性」や「子の母としての側面」も非常に重要である。
だがアニメ版においては新一の物語が重要視されているはずだ。
新一のデザインはその「母と子」の関係を踏まえたものだろう。
眼鏡を掛けた新一はまだ幼さや子供っぽさが残るデザインになっており、
その内面的な変化にいち早く母親が疑心暗鬼するのが強調されているし、
5〜7話における展開で新一は変貌し、「親離れ」するというニュアンスを強く持たせている。
8話以降、新一は原作のデザインに戻るがその姿は「一匹の雄」である。
より「雄性」を強調する方向で腐心されているのだ。


その変化に戸惑いを受けるのもまた女性キャラだ。
里美の「キミ、泉新一君だよね?」という原作で何度も繰り返されるフレーズはアニメ版においても、
効果的に繰り返されている。
彼女は新一の対象者でもある。
変容する彼の自我にずっと問いかけを続けている一方、
新一の母親の息子に対する疑心暗鬼と情緒不安定な部分を里美も同じく背負っているのだ。
それは8話以降、より顕著になり、10話の島田編クライマックスでの救出へと繋がっている。
雄への本能的な警戒心と母性と言えばいいのだろうか。
加奈についても、同様のことが言えるだろう。
外見ともに一番改変されており、アニメ版においては新一に対しての眼差しがことさら強化されている。
彼女は人間社会に溶け込む寄生「獣」を見分けてしまう不思議な能力を持つ。
そのためか「獣」における「雄性」を新一に感じ取っている演出がそここにされている。
原作では容姿が前時代的なスケバンなので、恋愛という方面になかなか向かわなかったが、
アニメ版はかなりそちらへ振り切らせているのだ。
ただ「寄生獣」を感じ取るニュアンスが強かった原作に対して、
加奈に「新一」を意識させる事に注力し、後々の展開をドラマティックに演出する複線として機能している。
だからこそ11話の演出が際立つ。


里美も加奈も新一のうちに潜む「野生」あるいは「雄性」という面に惹かれている。
新一の幼体から成体への変化に対しての反応だろう。
以前から知っている里美はそのギャップに戸惑い、
変化の兆しが出た後に知り合った加奈は本能的に惹かれている。
このあたりの目線の強調が新鮮でもあり、アニメ版の面白さでもあると思う。
そして里美にも、加奈にも新一の母親の影が見え隠れしており、
物語の要素が有機的にリンクしあっているのが興味深いのだ。
ここまでの説明を意識して、アニメ版のOP映像を見れば、その味わいを感じていただけるだろう。


やはりアニメ版が原作を更新していると思わせる一面が、女性の視点だと感じる。
原作は「男性」と「寄生獣」の視点がほぼ占めているが、
アニメ版はより「人間ドラマ」に指向したので、女性の視点が補われているように思う。
この視点によって大きく印象が変化したのは他ならぬミギーである。
誰しもが男性の声を想像していただろう、ミギーを平野綾さんが演じると言うことはアニメ版のひとつのトピックスだ。
面白いことに女性キャストが声を当てることで、「新一の精神的母親」のニュアンスが出てきた。
ミギーはもちろん「異形の存在」である。
そこに感情の余地は一切ない。
しかし、6話で瀕死に陥った新一を共生する立場から助けるというのはある種「無機質(機械的)な母性」にも見てとれる。
これは面白い現象で、人間と寄生獣の共生関係を擬似的な母子の精神的共生関係に結び付けているのだ。
8話以降の新一は雄として一人立ちしたものの、依然ミギーの「半庇護」の状態である。
この関係の隠喩を捉えると見方が変わって面白いのではないだろうか。


それ故に一貫してアニメ版は「雄が何を為すべきか、何を守るべきか、その原動力は何か?」と、彷徨う雄の話なのだ。
だからこそ、それを受け止めるべき存在として雌、つまり「女性」を強調する事になったのではないだろうか。
母を失い、雄として成長した新一の彷徨いを支える、もしくは共に歩む母性として里美がいるという真理。
この真理には結婚式の誓いを思い出す。


「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、
これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」


人間と言う種族が「生存」する為には、
雄と雌がつがいになり、子を成し継承していくことが動物的な生存戦略なのだろう。
つがいになるという事は「共生する」と言うことだと思う。
アニメ版はより「生」きる「人間の物語」だと筆者が定義したのもつまりそういうことなのである。
雄と雌が必然を持って結びつくことで生命が続いていく。
それこそが「生」の格率なのではないだろうか。



《終わりに》


以上が筆者の思うアニメ版の印象でした。
これを書いている時点で「寄生獣〜セイの格率〜」は折り返しを迎えています。
繰り返しますが、原作が「俯瞰的」「傍観的」に人間と言う種族、社会全体を描いた作品であるならば、
「セイの格率」は一人の人間を描く作品なのだろうなあという見方でずっと見ています。
強調している部分が違うので賛否があることは致し方ありませんが、
原作は原作の良さ、アニメ版はアニメ版の良さがあると思います。
今回は出来うる限りで、駆け足ですがアニメ版の良さを解説したつもりです。
上手くいったかどうかは自信はありません。
これをきっかけにアニメ版を見ていただければ幸いです。


あとこれは余談になりますが。
この記事を書いていて感じましたが、
寄生獣〜セイの格率〜」は「謎の彼女X」と接続可能なのでは? と思いました。
ここまで「男女の関係」を強調しているとなおさらそう思えてしまいます。
謎の彼女X」も女性の「母性」を多分に意識した作品ですし。
「セイの格率」も「母性」というラインで見ると非常に興味深い作品です。
同じアフタヌーン作品ですので通じるテーマが根底に潜んでいるのかもしれませんね。
もちろん原作と合わせて比較してみるのもいいのかもしれません。


では。
また次の記事にてお会いしましょう。