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大長編ドラえもん私的考察〜F先生の描いたもの〜(後編)

少し間が空きましたが、そろそろケリをつけようと思います。
いよいよF先生晩年期の第4期作品へ触れていきます。
大長編ドラえもんで取り扱われた題材は第1〜3期まで
冒険譚から社会、人間に取り巻く問題へと、かなりスケールアップがなされてきました。
ここまでの作品群と比べても第4期が少々趣が異なっていると言うのが、筆者の持論であります。
その説明をして今回の大長編ドラえもん私的考察の締めとさせていただきます。
何度も申し上げていますが、F先生死後の第5期、現在進行中の第6期については、
最後にさらっと触れる程度にしますのでどうかよろしくお願いします。
それでは始めていきましょう。


《第4期:A Beautiful Dreamer In F》


第4期最初の作品、「夢幻三剣士」が公開された94年は、
原作の「ドラえもん」、実質上のラストエピソードである「ガラパ星から来た男」が発表された年です。
調べるとドラえもん以外の作品も95年の異色短編「異人アンドロ氏」を最後に発表が途絶えていますので、
本当に晩年は「大長編ドラえもん」のみに注力していたと言えますね。
F先生は96年の9月に亡くなりましたので「夢幻三剣士」が公開になった時点から2年足らずの余命だったと言えます。
※大長編の漫画は映画に先行して連載をされていますので「ねじ巻き都市冒険記」は没後の97年公開。
亡くなる直前まで執筆を続けていたF先生が第4期作品に何をこめていたのかを見ていこうと思います。
その為にはまず野比のび太というキャラクターについて考えたいと思います。


野比のび太 - Wikipedia
ドラえもん」という作品の主人公格であり、ドラえもんとの名コンビを見せる彼ですが、
大長編になると大活躍するというのはファンのみならず誰でも知っている常識。
普段はぐうたらでテストはいつも0点でけんかに弱く、
ジャイアンたちにはいじめられ、ドラえもんには泣きついて助けを乞うのび太
しかしいざ冒険へとなるとその主役と言う立場から、活躍する見せ場が幾度となくありました。
有名なところだと「宇宙開拓史」の原作版におけるギラーミンとの一騎打ちでしょうか
(新・宇宙開拓史で映像化されたようですが未見)。
他にも「日本誕生」での救出シーン、「鉄人兵団」でリルルに銃を向けるシーン、
「パラレル西遊記」の孫悟空なんかもそうですね。
ぱっと思い浮かべるだけでも結構、出てきます。
このように普段ののび太からは想像できないような活躍を見せる、
いわゆる「大長編補正」が存在している
(もちろん他のキャラにも言えます)のですが、
のび太はそれらについて、今まで自覚的であったのか?
ということを考えたいと思います。
大長編のストーリーラインをものすご〜くざっくり解体してみれば、
「とあるきっかけで状況が発生→そこへ冒険に行く→問題&事件が発生→解決のために対処する」
というのがわりとパターンかと思います。
今まで解説した中で言うと、元々存在する場所を冒険、
或いはひみつ道具で状況を生み出して、冒険ってパターンでしょうか。
降りかかってきたシチュエーションに対し、ドラえもんたちが冒険をし、事件を解決していくという流れはシリーズを通じて、
あまり変化は無いと思います。
ただのび太の活躍にだけスポットを当てて考えると、結構受動的に行動してるんじゃないのかなあと。
例えば「日本誕生」での活躍もペットアンプルでペガサスたちを作ったのはのび太のアイディアですが、
ドラえもんたちを助けに行くきっかけはタイムパトロールのお膳立てだったりしますよね。
与えられた状況に対処してゆくと言うパターンが結構多いんじゃないでしょうか?
のび太自ら動いて、状況を打破したというのはあまり描かれてこなかったんじゃないかと思えるんですよね。
「〜だから、〜しなければいけない」という理由付けがあって、行動しているような感覚でしょうか。
上手く言語化するのが難しいのですけども、
消極的ではないんだけどわりと行動が状況に対して後手に回っている印象があるんですよね。
のび太が先手を打って行動したというのを今まで語ってきた作品たちを思い返せば返すほど、
見当たらないような気がします。
のび太に対して、F先生がそのような問題意識を持っていたかどうかは定かではないのですが。
それとのび太F先生の少年時代を自己投影したキャラであることも着目しておきたい。
上のリンクページからの引用ですが、

作者の藤子も少年時代にいじめられていたため、「のび太は私自身なんです」「僕は子供の頃、かけっこも運動も苦手でクラスの友達からいじめられていたんです。ドラえもんのび太そのものだったんです」と語っている

とありますので、のび太はF先生の中に確実に存在しているんですよね。
のび太=空想の中に生きるF先生と言い換えてもいいのかもしれません。
それらを踏まえておいて、第4期の作品に目を向けるとのび太の描き方がそれまでの趣が異なっているように感じます。
そしてそれが第4期の最大の特徴だとも言えます。


のび太が能動的に活躍or重要な役割を担う物語


実際、「夢幻三剣士」や「銀河超特急」ではかなり能動的に活躍してるのではないかなと。


夢幻三剣士:勇者ノビタニヤンとなり夢の世界を支配しようとする悪の親玉オドロームを倒す
銀河超特急:自らの持つ射撃の才能によって、クライマックスシーンでヤドリ天帝を一人で倒すと言う大立ち回り


「創世日記」や「ねじ巻き都市冒険」ののび太はまた役割が少し異なりますから、後述するとしても、
上記の2作ではほぼヒーロー的な活躍のび太は見せています。
しかも「夢幻三剣士」においては自ら敵に立ち向かってゆく勇気を見せています。
「夢幻三剣士」も第2期の「パラレル西遊記」同様にゲーム的な世界観を見せている作品ですが、
より純化してるんですよね。
「パラレル西遊記」はゲーム世界が現実を侵食した世界観で現実と空想が悪夢的融合をする展開で、
さらに第3期の「ドラビアンナイト」では絵本世界と現実世界がリンクすると言う展開がありました。
「夢幻三剣士」はこれらの作品を踏まえた上で、あえて夢と現実の境が曖昧になっていく展開を選択しています。
大長編シリーズ中でも随一の異色作とされる「夢幻三剣士」ですが、
ひとえにそれは「のび太」というキャラクターにスポットを当てるということに集中するが為、
仕組まれたものなのではないでしょうか。
「夢幻三剣士」が特殊である所を挙げてみると


1.シリーズ中で唯一、仲間となるゲストキャラが登場しない作品
2.さらにジャイアン、スネオも後半フェードアウトし、いつもの5人が揃わず話が終わる
3.それゆえにのび太としずかちゃんの関係が強調されている(恋愛要素が含まれた展開)
4.現実と夢が交差した暗喩的なラストシーン


といった点が出てきますね。
重要なのは2,3でしょうか。
特に3を描くために、1,2に構成されたと見ていいのかも。
「夢幻三剣士」はのび太というヒーローが、
しずかちゃんというヒロインと結ばれる話と捉えても問題はないんですよね。
その為に、不必要なものはごっそりと省いてます。
ジャイアンやスネオすらも必要なくて、ラストシーンにはドラえもんもいない。
いるのはのび太としずかちゃん。
そして夢と現実が混ざり合ったラストシーン。
ここまでの説明でなんとなく気付くかもしれませんけども、
F先生がのび太に少年時代の自分が出来なかった事を映し出している
ようにも見えますよね。
「夢幻三剣士」における要素を全てそぎ落とすと、残るのは「ごっこ遊び」なんだろうと思います。
「チャンバラごっこ」の中心にいるのが「夢幻三剣士」でののび太の立ち位置なのではないでしょうか。
さらにF先生の異色短編で1979年に発表された「山寺グラフィティ」という叙情的な一遍があります。
山寺グラフィティ - Wikipedia
かいつまんで説明すると、

主人公には、幼なじみ女の子がいた。
お互い意識していたわけではなかったが、ずっと仲良しでいつもそばにいた。
しかし、彼女は主人公が高校時代の時に亡くなってしまう。
現在は東京でイラストレーターの活動を続けていた彼は、ある日幼なじみにそっくりの女性に出会った。
言葉を発する事のない彼女はどうやら主人公にしか見えないらしい。
そんな彼女は主人公の恋人のように振舞うが、それは幻影にしか過ぎない。
気になった主人公が地元へ戻ると彼女の実家の神社の裏で彼女の顔を象ったコケシが奉納されてあった。
なんと死んでしまった後も幻だけは成長しており、その事を彼女の父親に話したら妙に納得し、結婚させてあげようといって、
主人公と似た顔のコケシを彼女のコケシと一緒に儀式を挙げ、奉った。
それからしばらくして、幼なじみの幻影は主人公と似た顔の幻影と新婚旅行の姿で再び主人公に挨拶に来た。
主人公はそれを祝福すると、二人の幻影は別れを告げ去っていった。


という切ない短編なのですが、コケシ同士の結婚という所がどことなく
「夢幻三剣士」の内容に符合してなくもなさそう。
「山寺グラフティ」では亡くなったヒロインの供養としての結婚だったわけですが、
「夢幻三剣士」においてはF先生がのび太への功労として、しずかちゃんとの関係を奉納したのかなあと。
だからのび太が自力で解決できるヒーローとして描かれたんだと思います。
女の子のええカッコみせたいのは男の子の常としてありますが、
F先生ものび太にカッコいい事をさせたかったんじゃないかなあと思ってしまいますね。
現実で出来なかった願望の補填と言ってしまうと身も蓋もなくなってしまいますが。
少年時代の自身を自己投影したキャラクターが成り行きではなくて、自ら中心になって足を踏み出して活躍する。
なんともカッコいいじゃないですか。
現実と夢が入り混じっている、というのもそこらへんの予防線なのではないかなと。
のび太においては現実であり、夢でもあるけど、それ以上に見ている側にとっては創作物でしかないわけで。
作り物である以上、現実ではない。
けど、のび太にはこれは現実にもなるし、夢でしかないかもしれないっていう意味合いが含まれてそうです。
どちらを選ぶかはのび太自身である、という風な終わり方なんじゃないでしょうか。
「夢幻三剣士」の冒険の中で結構自発的にのび太を行動させていたのは、
選択をする材料をそろえたってことなのかもしれません。
F先生は自己の投影先としてののび太の「役目」にケリをつけようとしたのかもしれません。
のび太=F先生という関係を終わらせようとしたのが「夢幻三剣士」という異色作だったのではないでしょうか。


その点では「夢幻三剣士」はかなりパーソナルな面を含んだ作品だと言えると思います。
第4期作品がそれまでの大長編と趣が異なるのは、
他ならぬF先生の内面がかなり見え隠れしているからではないかと。
その証拠に「夢幻三剣士」をはじめ、絶筆となった「ねじ巻き都市冒険記」まで、
これまでの作品と比べてもかなり特殊な舞台のオンパレードです。



夢幻三剣士:夢の世界
創世日記:ひみつ道具で作った擬似地球
銀河超特急:未来のミステリートレインの終着点(アミューズメントパーク)
ねじ巻き都市冒険記:クジで当たった緑溢れる小惑星


こうやって見ると、けっこう閉じた世界観の中での物語が多い気がします。
第4期作品は第1期作品とおなじく冒険ものの色合いが再び強まっている印象もあります。
しかしこのように閉じた世界観で冒険をしているので第1期を髣髴とさせてはいるものの、
肌触りとしては結構違いますね。
今まで通過してきた作品のパターンの積み上げもありますし。
ミステリートレインで旅をする「銀河超特急」以外は
手が届く範囲といいますか、ドラえもんたちが制御できる範囲の世界にとどまってる印象。
特に「夢」や「意識」の世界へ踏み込んだ「夢幻三剣士」などは大長編シリーズ随一の異色作だといえます。
それ以外の「創世日記」や「ねじ巻き都市冒険記」も「世界を作り上げる」という点で共通しているのも注目です。
そういう点では「銀河超特急」も示唆に富んでいるといえるのですが、
そこら辺は論を進めて行きながら明らかにしていきましょう。


「夢幻三剣士」に続く「創世日記」でものび太という存在は重要な役割を果たしています。
ドラえもん のび太の創世日記 - Wikipedia
リンクの説明にもあるように
「創世記」がテーマでF先生がライフワークであると公言した題材を基にして作られた「創世日記」ですが、
ここでのドラえもんたちは遂に「物語」に関わらなくなってしまいます
タイトルとの通り、「創世日記」であるので基本的にドラえもんたちは「観察」しかしていません。
ひみつ道具「創世セット」によって作られた擬似地球で織り紡がれる歴史文化を
まさに「神の視点(第三者視点)」で見ていく。
時に干渉しきっかけを与えたりもするけど、その擬似地球で繰り広げられるドラマの枠外に存在しているのですよね。
この作品は非常にメタ的な構造をしていて
「擬似地球を作り、観察するドラえもんたちをさらに漫画として描きながら観察するF先生」
という重層構造になっています。
先ほどもちょっと触れましたが「世界を作り上げる」というテーマの下に考えれば、
「漫画と言う世界を作るF先生=創世キットを使って地球を作ったドラえもんたち」
という図式も成立すると思います。
さてこの「創世日記」でのび太という存在がどういう風に作用しているか、ということなのですが…。
実はのび太本人ではなく、擬似地球に存在するのび太によく似た容姿をした野美一族に着目したいと思います。
「創世日記」ではドラえもんたちに物語が与えられておらず、物語の中心は擬似地球の野美一族です。
擬似地球の原始時代から神話時代、平安時代、そして近現代にまで野美一族が、
ドラえもんたちの俯瞰する物語に関わってきます。
またドラえもんたちの関知しないイレギュラー(実際は干渉してる)として「昆虫人」が存在しており、
こちらも擬似地球の歴史の随所に関わってきています。
「創世日記」は近現代の話が一番のメインなのですが、
面白いのは近現代にはジャイアンやスネオに似た容姿の人物が登場しないと言う事。
しずかちゃんに似た人物はでてくるのにです。
ここは「夢幻三剣士」と共通していますね。
さらに近現代の野美一族、
野美のび秀はご先祖の野比奈が昆虫人から子供を助けたお礼で貰った宝物を基に大財閥を築き上げています。
その財産を元手にのび秀が擬似地球の謎を探るため、探検隊を結成し南極の大穴へ冒険しに行くストーリー。
擬似地球と野美一族と昆虫人。
それまでの歴史の中で繰り広げられた物語の要素がすべて近現代の話に繋がっていくわけです。
この擬似地球の人々の冒険と言うのはドラえもんを介さない冒険」なのでしょうね。
人間たちが自力で探究心と目的地のために冒険へ足を踏み出す。
近現代がまだロマン溢れる時代であり、のび秀にそれを実行できる富と名声があったからというのもあるかもしれません。
しかし、あえてそこを目指すと言う冒険心は人間の行動力が駆り立てるものなのでしょう。
そしてそののび秀は「夢幻三剣士」でののび太の発展なんだと思います。
先ほど紹介した短編「山寺グラフィティ」を思い出していただくと、
のび秀としずかちゃんに似た人物である源しず代は「山寺グラフィティ」の「コケシ」であると考えられます。
そう考えると本来なら「大人」として成長しなければならないのび太への供養に見て取れますね。
「創世日記」のクライマックスでのび秀はしず代にプロポーズするというのも、
そういう意味合いがありそうです。
考えてみれば、「創世日記」のメタにメタを重ねている構造はそこら辺が起因かなあと。
のび太でない、大人になったのび太がこれまたしずかちゃんじゃない、大人のしずかちゃんと結ばれる。
これが「創世日記」における一つのキモであると推察されます。
恐らく今後、描かれる事が絶対無い瞬間を間接的ではありますが描いてしまっているわけですね。
昆虫人の方にもドラえもんのび太的な存在がいて、
「創世日記」の世界とドラえもんたちを繋ぐ折衝役を担ってたりしますが、
これはのび太ドラえもんという存在が超越的なものであるのを実証してしまっている証拠ですね。
「創世日記」の擬似地球においての超越者=昆虫人で、
さらに上位の超越者にドラえもんたちがいるという形になっているので、
物語の絶対的支配者が誰なのかを表していますね。
ドラえもん」と言う物語において、ドラえもんのび太という存在は揺るがない事が分かるかと思います。
このように「夢幻三剣士」も「創世日記」も
F先生がのび太を自分から切り離す行為を行っていたではないかと推察してます。
繰り返しになりますが、のび太はF先生の少年時代の自己投影でもありました。
それ以上にのび太は「ドラえもん」という漫画作品のキャラクターでもあるわけです。
そしてF先生の死後ものび太は「ドラえもん」の登場人物としてしてずっと生きていくのです。
きっとのび太の可能性を全て描いて、自分の手から解き放ったんだろうなあと思います。
F先生の思いやりなのかもしれませんね。
これからも漫画の中で永遠に生きていく「もう一人の自分」への贈り物だったんではないかと。
ゆえにしずかちゃんとの関係が近づいたり、間接的にプロポーズが描かれたと考えるとスマートかなと思えますね。
それと余談ではありますが、
「創世日記」、そして原作の最終エピソードである「ガラパ星から来た男」、どちらも敵役が「虫」なんですよね。
だからなんだって言われるかも知れませんが、不思議と言えば不思議。
でも、F先生の最も尊敬する「超越者」である、かの「漫画の神様」の名には「虫」の一文字が入っていましたね。
壮大な物語とキャラクターを数多く紡いできた彼へのオマージュなのか、それとも。
そこら辺を意識されていたかどうかは今となっては謎ですけども、何か符合するものがあるのかもしれません。


「銀河超特急」はこれら2作を踏まえて、さらにF先生の「後片付け」は顕著になっているのが窺えます。
F先生が完成を見届けた最後の作品である「銀河超特急」ですが第4期の中ではわりと正統派なお話。
「ミステリーツアーな宇宙旅行」というモチーフも冒険っぽいですし、
それ以上にヤドリたちとの攻防も大長編ならではのノリだといえます。
しかしながら、「銀河超特急」は「死」のイメージが色濃く出ている作品に見えて仕方がありません。
ドラえもん のび太と銀河超特急 - Wikipedia
リンクにもありますように「銀河超特急」の直接のモチーフ(元になった原作短編も)は、
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜です。
銀河鉄道の夜 - Wikipedia
あらすじはあえて解説しませんが、やはりこの作品をモチーフに選んだのは何か含みが合ったのかなと思います。
簡単に構図を書いてしまうと、
ジョバンニ=のび太でカムパネルラ=F先生なのだろうと。
この構図に関しては無理に当てはめれば、ぐらいに感じていただくとありがたいです。
そこまで根拠は無いので。
しかし、「銀河鉄道の夜」を持ってきていることで「死」のイメージが濃くなってるのはあるのかなあと。
「銀河超特急」での行き先は資源が枯渇した炭鉱開拓星系のハテノハテ星群が国を上げて、
開発したテーマパーク「ドリーマーズランド」。
資源の枯渇した惑星と遊園地と言うモチーフがやはりなにか暗喩的です。
これをF先生に当てはめてみると、


資源の枯渇した炭鉱惑星=書けるネタはもう無い?
遊園地=F先生の描いてきた漫画作品の数々


という風に勘ぐる事は可能なワケですね。
F先生も未完作品が無いわけではないです
(絶筆になったねじ巻き都市冒険記、ドラえもん原作、チンプイ、TPぼん)。
しかし新作を書くというのは88年ごろの体調不良がきっかけで徐々に難しくなっていったんだろうと思います。
一方で先生の描いてきた作品の数々は、現在もなお子供たち、そして大人も含め、多くの人々に読まれています。
「銀河超特急」はそういったF先生の光と影というのを暗に示した舞台設定だったのかなあと個人的には考えています。
上のリンクにも解説されているように
「観光開発による地域経済活性化といった社会問題に踏み込んだ側面」もあるんだと思いますが、
ここまで第4期の作品を考察してくると、やっぱりパーソナルな問題の方に印象が強く引っ張られてしまいますね。
全体的になにか物寂しさを感じてしまう「銀河超特急」ですが、
当時のF先生の心境が現れているのかなあともつい邪推が頭をよぎったり。
だからドリーマーズランドのテーマパーク星は「恐竜」だったり「西部劇」、
「童話」や「怪奇」、「忍者」の惑星が存在するんですよね。
思い返してみるとそれらはF先生が自身の作品に多用したモチーフや、
藤子不二雄」としての作品のモチーフ(ありていに言うとA先生作品)だったりします。
藤子不二雄」の作った作品世界は作者の死後も、
ドリーマーズランドのように人々を楽しませてくれるわけですね。
だから「銀河超特急」の終着駅は「作者がいなくなった後の世界」でもあるんだと思います。
これからもF先生の手から離れていった作品の数々が広く読まれていく事はなによりも幸せな事なのだろうなと。


さてドラえもんたちはといいますと、この作品の最初の事件でのび太はこんな事を言っています。

今までぼくらはどんな冒険だって乗り越えてきたじゃないか

このあとスネオに「のび太は映画になるとかっこいいことをいう」と言われ、
メタフィクション的ツッコミが入るわけですけども、
この台詞が全てを物語っていると思います。
そう、ドラえもんたちもF先生の手から離れていっているのです。
そしてのび太が今までの大長編の活躍について、自覚的な発言をしている。
これもF先生の自己投影ではなく作品のキャラクターとして完全に独立した瞬間、だったんではないかなあと。
少なくともこの台詞が出てきた事だけでも「銀河超特急」はそれまでの作品とは趣を異ならせています。
そんな大長編の活躍に自覚的なのび太が、
この作品のクライマックスで敵の親玉を倒すというのはある種の必然だったんですよね。
F先生≠のび太という図式が成立してしまったからこそ、
物語のキャラクターとして義務付けられた活躍を見せているんだと思われます。
ある意味、読者に求められている活躍なワケですね。
そういえば「銀河超特急」における悪玉、ヤドリも精神寄生生命体という特異な存在ですね。
ヤドリを霊魂だと考えると、宿主はその憑依対象
簡単に言ってしまうと、「銀河超特急」の敵対構図としては悪霊退治のそれと一緒ですね。
あるいはゾンビものというか、死せるものが生けるものを乗っ取ろうとする、みたいな。
印象としてはそこまで怖くないんですけどね(笑)
こういったヤドリの存在も含めて、死や死後のイメージが強い「銀河超特急」。
そして絶筆となった「ねじ巻き都市冒険記」ではF先生はのび太に原作者として最後の仕事を託すのです。


ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記 - Wikipedia
「ねじ巻き都市冒険記」はF先生も死を覚悟されていたのか、
上のリンクの概要にもあるように原作完成前に芝山監督に話の大筋を教えていたようですね。
なので一応、F先生のコントロールは最後まで効いている作品ではあると思われます。
ここでもドラえもんたちは物話の枠外にいますかね。
ゲストキャラクターのビープを始めとする、
小惑星に造られたねじ巻き都市に住む生きるおもちゃたちはどれもキャラが立っていて、
自分たちの世界を発展させようとしてます。
ドラえもんたちは基本的にそれら発展のお手伝いなんですよね。
途中、熊虎鬼五郎というイレギュラーな脅威が入ってきますが、
これもまた「ねじ巻き都市」を脅かす存在でしかなかったります。
「ねじ巻き都市」での出来事とドラえもんという物語が半ば乖離しかけていて、
それを強引に結び付けているのが「事件」でなんですよね。
ビープたちの世界にとってイレギュラーな存在は、
同じくイレギュラーである(でも見守ってもいる)ドラえもんたちが対処する。
ゆえに作品の形式が保たれている感じです。
正直、熊虎鬼五郎は大長編ドラえもん史上最も矮小な敵役と見てしかるべきでしょう
前科100犯というとってつけたような設定もそうですけども、
今まで以上に人間性にフォーカスしていて、世界を揺るがす敵とかではないのが注目すべき点かと思います。
また彼のキャラクター性には性善説が取り入れられており、
第2期での人間描写をミクロ的に捉えていたりしている感じですかね。
人間は愚かであるが、それでもどこかに良心が存在していると言う。
その熊虎鬼五郎の小さな良心が最終的に悪に打ち勝って、物語が収束すると言うのがこの作品の全体的な流れ。
ビープたちおもちゃの住人たちはそういった良心の塊たちの集合であって、
「ねじ巻き都市」は平和な世界が何時までも続く理想郷でもあるんですよね。
ああ、今気付きましたがもしかしたら「ねじ巻き都市」はジョージ・オーウェルの「動物農場」の反転なのかもしれません。
動物農場 - Wikipedia
自分もあらすじだけで詳しく読んでないので言及は避けますが、寓話的な雰囲気は似通っているのかなあと。
ですが、これらより重要なのはやはり「種まく者」の存在でしょうね。
「創世日記」ではドラえもんたちは「観察者=神」の立場でした。
「ねじ巻き都市冒険記」では種まく者をキャラとして据える事で、
種まく者>どらえもんたち>ビープたちねじ巻き都市の住人と言う構図が発生しています。
「創世日記」の構図にさらに上位者が存在する構図が「ねじ巻き都市冒険記」だと言えますね
もちろん「種まく者=神」という解釈ですが「ドラえもん」の物語における「神」はもちろん原作者のF先生。
で、この「種まく者」と直接会話をしたのは他ならぬのび太なのです。
第4期作品はいわばF先生とのび太の別れが中心に描かれた来たといっても過言ではないと思います。
「ねじ巻き都市冒険記」に至るまでの作品でのび太は主役然とした活躍を直接間接問わず任せられ、
それを果たしてきました。
F先生の自己投影という所からの脱却が「銀河超特急」で達成され、そしてこの「ねじ巻き都市冒険記」。
種まく者とのび太の会話。
それは「神と人間の対話」でもあり、また「F先生とのび太の対話」でもあります。
作中で種まく者はのび太にこう言います。

あとは君たちに任せる

……これは遺言なのかもしれません。
「ねじ巻き都市冒険記」の中で種まく者がのび太たちに事の顛末を任せた台詞という以上に、
F先生が「ドラえもん」という作品にかかわる全てのスタッフに向けたものかもしれないし、
漫画の中で生きるのび太たちへ向けた最後の言葉かもしれません。
どちらにしろ、F先生は「ドラえもん」という作品を種まき、残していった。
そう考えるとこの言葉は二重にも三重にも意味があるのだろうと思われます。
ここまで語ってきたことを考えれば、
F先生とのび太という二人は「ねじ巻き都市冒険記」でそれぞれ別の存在として出会い、そして別れていった。
F先生はこの物語の完成を見ず、この世を去り、
のび太は今もなおアニメや漫画の中に生き続けていく「夢の住人」と化したのです。
おそらく種まく者の「種」というのは「無限の可能性」を秘めているものなのでしょう。
それを任せられるというのは重い使命です。
その「種」を生かすも殺すも、扱う人間次第である。
だから頑張って、というエールだったのかもしれません。
今や「ドラえもん」という作品は完全にF先生の手から離れ、「みんな」の作品となったですから。


いよいよこの考察も終わりに近づいてきました。
最後にF先生死後の作品群について軽く触れたいと思います。
とはいっても、未見の作品がほとんどなので印象論になってしまう事はご了承ください


《第5期と第6期の個人的な印象》


F先生の死後、芝山努監督独立体制になった第5期(南海大冒険〜ワンニャン時空伝)、
現在進行中の第6期(のび太の恐竜2006〜)については、それぞれこんな印象を感じています。


第5期:どちらかと言うと冒険の舞台にドラえもんたちがお邪魔しに行く物語
第6期:模索期。代表作の登場が求められる。


簡単に言ってしまえば、
第5期はエンターテイメントに徹した分、いわゆるF先生独特の「すこし・ふしぎ」という感覚が希薄なイメージでしょうか。
大長編初期に見られた知的興味だったり、2〜3期作品のような問題意識はオミットされていて、
ひたすら楽しませる事に徹した作品群なのかなと。
あと世界観的にもSFというよりはファンタジー色が強まっているようにも感じられますかね。
「どこかにありそうな世界」じゃなくて「完全に空想に入り込んだ世界」という気がします。
なので、原作のドラえもんたちが「別の作者の世界」に入り込むような感覚が個人的にはありますね。
「お邪魔しに行く」というのはそういう意味合いです。


現在進行中の第6期はキャスト交代もあったので、本当に手探りの状態。
のび太の恐竜2006」などのリメイク路線とオリジナル路線が入り混じっていますが、
なかなか評価は難しいところ。
リメイク路線も悪くないんですけども、個人的にはオリジナル路線での「代表作」の登場が待たれますかね。
水田わさびドラえもん、通称わさドラも今年(2012年)で早7年目。
メインキャストの方々もぎこちなさが取れて、新キャストならではの演技が出来つつあるのではないでしょうか。
「新鉄人兵団」を見ると演技面においては違和感はなく大山版とは違った魅力が出てるようにも感じました。
だからわさドラの演技に見合った作品がそろそろ出てきてもいいはずなんですよね。
リメイク路線は古参ファンの足を運ばせるという点には効果があるかと思いますけども、
わさドラオリジナルの作品でそういった効果が生まれてはじめて、
わさドラが一本立ちしたといえるのではないでしょうか。
評判を見ている限りだと「これぞわさドラ!」という作品はまだ出てきていないように思えるので。


とまあ、勝手なイメージで語らせていただきました。
第5〜6期作品についてはいずれ実際に見て、印象が変わるかもしれないのでここまでにしておきます。


《最後にあとがきと反省》


いかがだったでしょうか。
前中後編、と当初思ってた以上の長さになってしまいましたが書きたいことは大体書いたつもりです。
このシリーズ記事の前編を上げた時の多大な皆様の反応に驚きつつも、大変嬉しかったです。
どうもありがとうございました。
反省すべき点としては、
指摘があったように「ドラえもんという肥大化する社会イメージ」の観点から作品を語れなかったことでしょうか。
作品内の事象で論を展開してしまったために、
F先生の作品のマンネリ化に対する苦悩みたいのがすっぽり抜け落ちてしまったのは
こちらの手落ちとして反省すべき点かと。
前編の最後でちょこっと触れてたりもしますけど、
結果として作品で描かれることについてのみ語ることに終始してしまった感がありますね。
あと、注意して欲しいという事は、ここまで展開した論はあくまで一つの見方にしか過ぎません。
ぶっちゃけてしまうのもアレですが、個人的にはこうなんじゃ?というのを邪推して文章にしているので、
実際の所、本当にそうなのかどうか、という確証はありませんのでご了承を。
作品内に描かれている事だからそういう見方も出来るかもねというレベルのお話である事を付記しておきます。
まあ、ココまで語ってきたのはあくまで作品の背景みたいなもので、
作品を見るに当たって必要な知識ではないです。
ただこれを機にまた大長編ドラえもんを見てみたくなってもらえたら、ありがたいです。
で、見た時にまた自分の意見を思い返してもらえたら、ココまで長々と考察した甲斐があったなあと。
それと自分と違う意見をお持ちの方が、
反応としてまたブログ等で論を展開していただけたらそれもまた嬉しい事ですね。
なんにせよ書いていて楽しかったですし、
ドラえもん、しいては藤子作品大好きなのが再確認できてよかったです。
また何か書くかもしれませんが、今回はココで締めさせていただきます。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
※加筆修正についてはおいおいするかもしれませんので悪しからず。