In Jazz(はてなダイアリー版跡地&元『My Favorite Things』)

ジャンル不問で好きなものを最小単位で語るブログ

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」アニメ#5 愛はキラめきの中に(How Deep Is Your Love)


第5話『キラめきのありか』
ここからBD-BOX第2巻収録内容。ソフトの収録内容から、TVアニメの構成が三幕構成である可能性が強くなってきていますが、今回のエピソードも「序破急」でいう所の「破」の始まりを示すようなお話だったのかなと思います。メインはまひる回でしたが、全体のエピソードとしても今後の展開に向けてなにかが胎動していくのを感じるエピソードでした。

いつものように舞台版の筋も含むネタバレですので読み進める場合は以下をクリック(スマホなどで読まれている方はそのままお進みください)





まひるの『青い鳥』】
(筆者が穿った目で見てるせいかもしれませんが)読み込むと異様に複雑だった前回と比べると、とてもストレートかつシンプルに攻めた回でした。そういう点では今回のメインである、露崎まひるの魅力を押し出しているエピソードでもあるでしょう。





3話で明らかになった前回の聖翔祭で公演された『スタァライト』。今回も取り上げられています。というより、舞台版でも俳優育成科2年A組の人間関係の起点になっているのが、一年生時の聖翔祭公演だということを考えると、アニメ版もこれを踏襲していきそうですね。3話では真矢とクロディーヌが描かれましたが、今回は彼女たちが演じる舞台ではなく舞台袖へカメラは移ります。



舞台袖で待機する6人の女神のキャストたち。緊張で舞台が(心理的に)遠のきそうなまひるを助けたのが華恋。この場面のやり取りが今回のレヴューオーディションにまで尾を引く、まひるにとって大事な思い出であり、華恋との絆でもあり、彼女にとっての「キラめき」である、という組み立て。



毎度おなじみこの作品を貫く「執着」を表した画像。今回のまひるにおいても、この「執着」を当てはめてみると一番大きいのは「少女(華恋)への執着」。しかし、同時に「舞台」と「約束」への執着も当てはまるのです。先の舞台袖の画像で、まひるの緊張を解いた華恋が「ずっと側にいるよ」と「約束」していますし、その約束が交わされたのは表舞台ではありませんが「舞台」での話です。昨年、第99回聖翔祭の舞台上で華恋(少女)と交わした約束。それがまひる「執着」の正体です。
まひるが「キラめき」を垣間見た瞬間。それが彼女が執着に囚われた理由になりますが、前回における華恋とひかりの「約束」に比べると、問題点がこじんまりとしたものに見えます。比較対象として見るべきではないかもしれませんが、今回描かれたまひる自身のコンプレックスは、自らの気付きによって難なく解決できる問題であるという点が非常に大きく、アニメでここまで描かれてきた中でも一番自己解決しやすいのですよね。なぜなら答えは自分の中にあるわけですから。裏を返せば、それさえ解決してしまえば、まひるは舞台少女としてなにも「問題がない」という事でもあります。自分で作った足枷によってポテンシャルを抑え込んでしまい、本来の実力を発揮できていないという事がまひる唯一にして最大の短所なのです。



1年前の出来事より自分の「キラめき」を華恋へと仮託してしまっているため、彼女に尽くす事、一緒にいる事がまひるの「舞台少女」として心の拠り所。なので、突然転入してきた華恋の古くからの「親友」の存在は寝耳に水で、彼女にとって「ここ(聖翔音楽学園)にいる」存在意義を脅かす一大事だったのは確か。ひかりを受け入れられない理由も、華恋と一緒にいる理由が奪われる、という以上に何者でもないわけで。だからこそ4話を経て、華恋が変化した事を快く受け止められない。






2話(上記画像3枚)に描かれるように、華恋の視線が自分ではなくひかりへと向けられる事に拒否感を露わにしている。一方で構って欲しくてスキンシップを図り、依存度の高さをアピールもしてるし、なにより4話(上記画像最後の一枚)でも華恋の交友関係の変化に異様なほど目ざとく反応している。4話までのやり取りを確認すると、やはりまひる華恋の「変化(成長)」を望んでいないようにも思える事が非常に問題で、今回のエピソードの主題もそこを突いたものになっていることからも明白でしょう。
それゆえに朝起きて華恋が(ひかりと一緒に)先に登校してしまっている事はまひるにとっては「恐れていた事が現実になってしまった」という以上のなにものでもない。レヴューオーディションでも言及されますが、華恋がまひるの「キラめき」であるためには彼女の「理想」や「憧れ」という鳥かごの中に閉じ込めておかなければならない。反面、まひるは華恋との関係性も重視していて、1話では「今度は、私と華恋ちゃんで運命の二人(『スタァライト』の主役、クレールとフローラの事)を……」という事をさらっと言ってのけてしまう辺りは自信があるのかないのか、掴めない所もあったり。いや、「華恋と一緒に」という所が重要なのであって、主役を勝ち取る事はまひるにとっては二の次、あるいは(華恋が一緒ならば)勝ち取れる実力はあると内心思っているということの裏返しにも思えますね。どちらにしても、華恋に対しては矛盾した想い(今のままでいい・二人で一緒に輝きたい)を抱えているというのは確かです。むしろ華恋という「キラめき」を笠に着ているからこそ、自身も輝けるという風に考えていそうです。




しかし、現実はそう甘くもなく。4話の一件を経て、「主人公」モードに目覚めてしまった華恋はもう「今まで」の華恋ではなくなってしまった。自主的には早起きして、早朝練習に励み、主席の真矢に対しても堂々と宣戦布告。他の7人同様、「舞台少女」としてレヴューオーディションに挑む彼女の姿がそこにあった。先の画像でも分かるようにまひる以外は全員レオタード姿で、最初のレッスンに向けて準備万端だけど、彼女だけ遅れてきたために制服姿で立ち尽くす。
言うまでもなく、まひるがまだ一人では「舞台少女」として覚悟をしっかりと持てていない事の表れなのでしょう。けども、この時点では覚悟と動機が一致しすぎてしまっている為に、彼女自身の「その舞台に立つ(立ちたい)」理由が見えてこないんですよね。華恋ありきで彼女の行動が決まってしまっている以上、まひる「らしさ」は返って束縛されているというのが浮き彫りになっているのです。


あのころには戻れない
何も知らなかった日々
胸を刺す衝撃を
浴びてしまったから
〜OP曲「星のダイアローグ」より歌詞抜粋〜

まひるが一年前にもらった華恋の笑顔とキラめき。しかし、今回の冒頭で見せた彼女の笑顔とキラめきはあの頃とは違う。引用した歌詞が示すようにもう「戻れない」ことだけははっきりとしている。あの時、自分だけに向けられた華恋の姿はもうなく、自分が世話をかけなくちゃいけない華恋ももういないのだ。吹き抜ける風のように、まひるの髪を彼女のキラめきが揺らす。その意味合いが一年前とは大きく異なるのがまひるを苛んでいく事になるのです。彼女の大事な思い出がすり抜けていくような感覚。華恋にとってはどちらも無自覚な行為に過ぎないのでしょうけども、受け取る相手が問題の根深さを拗らさせていく引き金となっているのは間違いないかと。




明らかに火の付いた華恋に対して、入り込む隙間もないまひる。クラスの中で急速に華恋の存在感が増していく中で、彼女は取り残されたような感覚に陥っている。原因は明らかだ。4話。彼女たちにとってはこの間の休みの日、華恋がひかりを探しに追いかけていったあの日を境に、決定的に何かが変わってしまった。自分の関与しないところで、「キラめき」が自分のものではなくなってしまった。そう言っても過言ではないほど、華恋はまひるの手の内から零れていってしまった。「キラめき」を他人に仮託している以上、このままでは自分の「キラめき」を失ってしまうと錯覚している。そこに彼女の問題が凝縮されているのはこの後の展開を見ていても、お分かりの通り。





その錯覚によって、過去の自分すらも振り返られなくなっている。というよりは、「地方で一番だった人間が都会にやってくると、さらに上を行く人間がいてその差に思い悩んだり、四苦八苦してもがき苦しむ」という物語の定型がそのまままひるにも当てはまっているのですが、生来の性格も重なって「自分にはなにもない」と思い込んでしまっているわけですね。彼女のおばあちゃんの送ってくれたDVDを客観的に見れば、彼女にも十分素質があって、聖翔音楽学園に合格してるわけなのですけども、錯覚によって自分を見失っているために過去の自分を見返しても、その変わらなさに目を背けたくなるわけですね。ちなみに彼女の実家が北海道の農家である事は前日譚コミック「少女☆歌劇レヴュースタァライトオーバーチュア」などでも明らかになっている設定です。



あっちを見ても、こっちを見ても東京には自分を輝かせる「キラめき」を持つ人ばかり。それに対してまひるは自分に「キラめく」ものがないと感じている。自ら輝けるから光は当たるし、反対に彼女はそれがないから輝けないと思っている。ここまでのエピソードでも何度か見た、光と影の対比がここでも表れてきます。それに付け加えて、まひるを奥まった所の中心に据えることで、孤独感も強調して重ねているのがダメ押しな印象を与えています。一人では前にも立てないし、光ある場所にも立つ事が出来ない弱々しい姿が痛々しくもあります。



そんなまひるでも華恋が一緒ならば、彼女の「キラめき」を浴びて自分も輝けると思っていて。まひるの瞳の中には華恋の「キラめき」が焼き付いている。一年前の稽古でも二人は同じ場に立って、「キラめき」を感じあっていた。まひるにとってはやはり華恋が「キラめき」であり、自分の理想としている姿でもあり、得ることが出来ない、換えがたいものに見えている。





しかし今、華恋の隣にはひかりが立っている。まひるはまた「何もない」自分になって、取り残されてしまう。その「キラめき」を受けるのは自分であるはずなのに、突如降って湧いて出てきたような「幼なじみ」にすべて奪われてしまった。神楽ひかり。彼女がやって来た事によって、何もかもが変わってしまった。



まひるの一番恐れていること。それは華恋が自分の手を離れて、遠くへ行ってしまうこと。もちろん距離のことではなく、彼女たちの関係が、ということですけども。新しい仲間(ひかり)によって、華恋はまひると一緒にいた時には届かなかった先のステップへとどんどん進んでいってしまうのではないかという危惧。まるで必要なくなったかのように古い仲間(まひる)は切り捨ててしまわれないか、不安と心配は尽きない。「何もない」自分だけが置いていかれてしまう。『青い鳥』が鳥かごから飛び立っていく、その光景を黙って見ているしか彼女には術はないのだろうか。




この辺りもコミカルな描写で取りまとめられていますが、まひるのやろうとしている行為は明らかに度を越えたものでもあるし、華恋に対する愛情表現が思い余っている印象も強い。しかしひかりとの結びつきや変化したことにより、他のクラスメートの関係が広がったりしている事への彼女なりのカウンターでもあって、なんとしてでも華恋との絆を強く保とうとして、自分の中に取り込もうとしている行為になのだろうなあと。それくらいに切羽詰った心境なのが分かりますが、一線を越えかけてる辺りにまひるの「重さ」を感じ取ることが出来ますね。そしてそれを阻止するひかりがツッコミとして機能しているのが、描写のキワドさを軽減させている。しかし、まひるにとってひかりは目の上のたんこぶでしかありません。華恋との絆を深めようとすると、彼女が立ちはだかってくるわけですから。



このカメラ長回しで表れる一枚絵。これこそがまひるの今現在の気持ちを具現化したものです。華恋からもたらされる「キラめき」をひかりが一身に受け取り、そこから零れ落ちたものだけがまひるへと届く(ほとんど届かない)。なんでもできるひかりに華恋の「キラめき」もほとんど奪われてしまっているから、自分は輝けないし、何も残らない。ほとんど自分を見失い、錯覚と思い込みによって、まひるは自分で自分を苦しめている。その悲痛な叫びもまたひかりに向けられているものの、その実、自分に跳ね返ってくることに気付いていないのですね。



だから「奪うなんて簡単に言わないで」とひかりに言い返されてしまうわけで。そもそもまひるの問題は奪い奪われ合うという事ですらなく、自分の中に可能性を見出せるかそうでないかであるので、ひかりへ宛て付ける問題はではないんですよね。自身の奥に潜んでいる「キラめき」に気付けるかどうか、であるのでまひるが吐露している感情は全て前提が間違っているわけですね。ということを考えていくと、彼女の抱える「嫉妬」の矛先もだいぶ異なってくるわけです。

夢の前では大きく
人の前では小さくなる
でも本当の私を知りたくて
いつもその笑顔に憧れていた
〜舞台版劇中歌「私たちの居る理由」より歌詞抜粋〜


舞台版劇中歌である「私たちの居る理由」でも、まひるの気弱な性分が彼女自身の可能性を束縛している鎖でもあるし、それがあるからこそ「本当の私を知りたい」わけですけど、その「本当の私」だという実例を「憧れたその笑顔」、つまり華恋に見ていたというのが舞台版で語られるまひるの人物像ですがアニメ版でも同じ問題点をなぞっていることがよく分かります。つまりは「なりたい自分」を華恋に重ねているからこそ離れられないし、自分の元から離れていきそうになる彼女に対して、割り切れない思いに駆られる。では、どうしたらいいのか。そこへ来たレヴューオーディションの案内メール。まひるは気付きを得て、あらぬ方向へと走ることになります。



【嫉妬は誰に向けられたのか】



まひるのレヴューオーディションは今までと比べるとかなり変化球なものでしたが、前項で説明したように1年前の聖翔祭に端を発するまひるの思い込みによって成り立っています。単純に構図だけをとってみれば、まひる今までの関係性を取り戻したいわけですが、その過程でひかりを始めとする舞台少女たちを全員やっつけて、彼女の「星」である華恋と運命の舞台に立つことを選ぶという無謀極まりないもの。つまりは華恋がいれば、他の者たちはいらないと言っているようなもので、今回のコミカルな演出とは裏腹にかなり闇の深い病んだ発想で戦うことを決意してるのがまず怖いわけですね。その為、まひるのテンションがダウナーに向かわず、レヴュー曲に引っ張られてアッパーな狂気として描かれる事でメリハリを作っているのも全体の構成的にも考えられているものだと思います。



とはいえ、今回は舞台版とアニメ版のレヴューオーディションのタイトルが初めて一致したのがやはり注目するべきところでしょう。しかも対戦相手もアニメ版は華恋、舞台版はひかりと異なっているのも、対比としてかなり重要であるはずです。とはいえ、舞台版ではとある理由からまひるは二回オーディションを受けているのですが、嫉妬のレヴューは二回目の方です。アニメ版の演出がアッパーでコミカルなのに対して、舞台版はダウナーでシリアスな演出として組み立てられているのも大きな差異でしょう。



その為、アニメ版の方が狂気度がより高い印象(舞台版はダウナーな分だけ冷静)で、上の画像からもまひるの持つ武器のパワーと破壊力も恐ろしく高いのが手の付けられなさを演出してますね。バーサーカー的な得体の知れなさも彼女の拗らせ方と相俟って、とても怖い印象。全体のトーンがコミカルなので見過ごされがちですけど、彼女の「重さ」が攻撃力にそのまま比例している感じですね。



この辺りの下りが舞台版と大きく異なる部分。まひるが抱いていた「憧れ」を背負っていた、かつての華恋に戻って、そのお世話をさせて欲しいと「執着」を涙ながらに訴えるわけですが、これは既に華恋がまひるの思い描いている理想像とズレているから発生する感情の発露なのですよね。変化してしまったことによって、彼女はまひるの「キラめき」ではなくなってしまった。だからその苛立ちをぶつける。
しかし考えてみると、レヴューのタイトルは「嫉妬」です。舞台版での「嫉妬」のレヴューは相手がひかりという、嫉妬の矛先であるから成立しているわけで、アニメ版はなにをもって「嫉妬」としているのがいまいちよく分からないのです。実は舞台版における華恋はキャラクター性だけに関して言えば、一切ブレない不変のキャラクター(もちろん尺の関係もあるとは思います)です。だからまひる「幼なじみの親友」という華恋と強い関係性を持つひかりに嫉妬するわけですが、アニメ版の嫉妬のレヴューは対戦相手が華恋なので、舞台版のような明快な「嫉妬」が描かれているわけではないように思えるのですね。華恋が変わってしまったことに対して想いをぶつけていますが、それが嫉妬に結び付くかというとちょっと疑問符が浮かびます。



華恋は「ひかりとの約束」を思い出してしまった以上、もう元には戻れないとまひるの想いを突っぱねる。「トップスタァ」という目標に目覚めてしまった、アニメ版の華恋は文字通り「アタシ再生産」を果たし、舞台で対峙しているわけです。が、その彼女はもはやまひるの「華恋」ではないということです。今回描かれてきたまひるのコンプレックスを突き詰めていくと、今野緒雪の著作マリア様がみてる」の細川可南子にたどり着くのだと思います。ここで細川可南子がどういう人間であるかの詳しい説明をする余裕はあまりないですが、掻い摘んで言うと「自分の憧れる存在に一方的な理想を重ねて、当の本人にも自分の理想を押し付けようとする」人物です。まひるがそこまで行っているとは思いませんが、華恋に対する感情はおそらく同質のものといえるでしょう。




自分には何もない、だから華恋の「キラめき」を借りて自分も輝くんだ。という、まひるの論理は華恋が「なりたい自分」像であるから成立する論理です。まひるは華恋に「自分の理想像」を重ねて見ているからこそ、なんでも華恋と共に行動したいし、彼女の至らないところも全て「自分」に他ならないであるから、フォローしてしまうわけです。まひるが華恋と過ごす麗しい学園生活とは華恋という「鏡」に映った、なりたい自分を追体験することでもあるわけです。
しかし、華恋は「自分の目的」の為に動き出して、変わってしまった。それはつまりまひるにとって、「鏡」に映った自分が勝手に動き出して独自に行動し始めたのと同義です。自分(の理想)であるはずの存在が自分であることを拒否して、変わり始めたまひるにとって、このズレは許しがたいものです。理想だった自分が一人歩きしていくわけですから。なりたい自分が「なれない自分」へと変わってしまった。だからこそ、嫉妬したのです。変わってしまった華恋がまひるの理想を映し出していた鏡像ではなくなってしまった。つまり、華恋に見出していた「自分」がまひる自身を追い越していこうとするから、彼女は嫉妬したのでしょう。



だから、まひるは「私はもう必要ないの?」とも投げかけてくるわけですね。もちろん華恋がまひるに関心を失ったのかどうかという意味も含まれているとは思いますが、同時に「理想の自分」だった彼女に対して自問自答しているようにも聞こえるのですね。まるで心理学における「影」に問いかけるように。作中でも重視されている光と影の対比が、まひるという自己の対話にも適用されているわけです。



すると彼女の鏡像を映し出す役割をしていた、華恋が「鏡」としてまひるの本質を語り出すわけですね。ずっと彼女の姿を見ていたからこそ、まひるが見失っていた、彼女自身の「キラめき」を照らし出していく。誰かの「キラめき」を浴びて輝くのではなく、自らのうちに秘めた「キラめき」によって輝きだすよう、華恋がまひる「らしさ」を引き出していく。



今回のレヴューにおける舞台装置はここまでに語った流れに連動してるんですよね。まひるが見失っていた「キラめき」を取り戻し、彼女も暗転した舞台から、スポットライト光り輝く舞台に立てたのも、華恋がきっかけになってまひるが自分の魅力を思い出したでしょう。誰に嫉妬するわけでもなく、ただ自分を改めて見つめ直した先に自らの「キラめき」があった、という話なのだと思います。



最後の最後で、まひるはようやく「舞台少女」になれた。その上で、華恋と対峙する。迷いはもうない。覚悟が決まった上での最後の一発勝負を交わすまひるの姿には誰かの「キラめき」に依存する弱さはなくなったのです。






レヴューオーディション終了後の学生寮での団欒。まひるは負けてしまったけれど、おそらく後悔は感じていない。送られてきたDVDを見返せば、自分が最初から「キラめき」を持っていたことにも気付かされ、「舞台少女」としてみんなと同じ料理を食べる。周りの「キラめき」に圧倒されて、自分を見失いかけていた。けれど、まひるの「らしさ」を思い出させてくれたのは華恋であり、ひかりもそれを認めている。独りでは気付けなかった「キラめき」があるから、自分はここにいるんだと、まひるは優しく微笑むのだった。



ラストに繋がる一連のカットで、風が吹いています。この風の吹く動作も2話で華恋が「情熱に目覚めた」ようにまひるも自分の「キラめき」を再発見したことで再び「情熱が目覚めた」描写なのかと。「キラめき」を取り戻したまひるもまた「再生産」できたエピソードだったのではないかと思います。答えは最初から自分の中にあったわけですね。
今回描かれたまひるの問題は舞台版においても、「自分を変えるためにここ(聖翔音楽学園)にやって来た」と言わしめるように、彼女の中に介在する弱さがテーマだったわけですが、TV版は華恋の助けによって気付きを得ますが、舞台版は自ら「嫉妬」を取り払って、ひかりの手を取るという自発的な行動が出来ている分、舞台版の方により「成長」を感じる作りになっているのが興味深いところ。この差異もアニメの今後にどう影響してくるか、楽しみなところですね。
また、前日譚コミックの「オーバーチュア」においても、まひるが「自分を変える」ための答えが提示されているのも注目しておくとより物語の理解が深まるのではないかと。以下に少しだけ引用します。







誰がきっかけでもなく、踊りや演劇が好きだから。そして自分の演技で誰かが笑顔になってくれることが嬉しいから。答えは極めてシンプルです。だからこそ迷うこともあるのでしょうけども、その気持ちさえ持っていれば、まひるのキラめきは失われないでしょう。

真昼の星になりたいな
日陰はちょっぴり寒いから
誰かの太陽になりたいな
夢を信じて今日も行く!
〜舞台版劇中歌「プレコール」より歌詞抜粋〜


舞台版の登場時に歌われるこの曲においても、まひるの優しさと願いは込められています。誰かの心を暖かくさせる太陽になれる「夢」を信じればきっと。彼女もまた「舞台少女」。キラめきの中にこそ愛はあるのですから。




【その変化がもたらすもの】


最後は今回描かれた、気になる描写をいくつか見ていきたいと思います。今後の展開に繋がりそうな箇所が色々あったのも、第二幕(だと思われる)の最初の回だからという事も大きく影響しているだと思います。複線だったり新情報だったり、僅かな描写でも目を離せないというか。ほんとにふとした描写に重要なものをサッと転がすから油断ならないというのが個人的な印象です。




まずはこちら。ばななが舞台創造科の分野である脚本・演出に関わる事になったのは3話で提示されていますが、今回の描写が差し挟まれました。ばななと会話してるのは舞台創造科2年B組の生徒。今回の聖翔祭で「スタァライト」の演出を手がける眞井霧子(左。CV:篠宮あすか)と同じく脚本を担当する雨宮詩音(右。CV:広瀬さや)。1話ではオーディション告知のビラに名前が、3話では企画書を配るシーンの合間に挟まれた大道具運搬シーンにも登場してますね。
スタァライト』の通し稽古を見学した後、三人で主役のキャスト起用について雑談している場面ですが眞井さんの「愛城さんと神楽さんが面白いかも」意見に対して、ばななは去年同一のキャスト、つまり真矢とクロディーヌを推す意見を返す。すると眞井さんと雨宮さんの二人は顔を見合わせて、裏方の使命として「舞台を育て、進化させていく。常に挑戦する意識を持って」と諭されてしまう。二人の立ち去った後、ばななは表情を曇らせて立ち尽くす。
舞台版を見ていると、ばななは「過去」に固執する性質の持ち主として描かれていて、その性質はアニメ版でも引き継がれているのは1話の段階から発言の端々に感じられていましたが、ここに来てついに噴出。さらに付け加えるならば、舞台版においても、アニメ版前日譚コミックの「オーバーチュア」においても「孤独」をずっと抱えている人物としても描かれています。「孤独」を引き摺っているからこそ、「みんな」で作り上げた一年前の『スタァライト』を良い公演で終えられた「思い出」が彼女の中に強く残っている。ばななは「良い舞台」を作り上げるのではなく、一年前の公演を再現することに意識が向いているために、眞井・雨宮の両氏に釘を刺されたという格好。言ってしまえば、これがばななの問題点です。


【ネタバレ】「私たちの居る理由」歌詞読解〜少女☆歌劇レヴュースタァライト〜 - In Jazz


↑の記事では舞台版の解釈でしたが、アニメ版でも過去の「美しい思い出」に囚われすぎているためにばなな自身が進歩しようとしていない。または聖翔音楽学園こそが自身の「孤独」を埋めてくれた「空間」であるからこそ、変化を求めたくないという後ろ向きな意識が働いているように感じられます。一体、ばななの過去に何があったかは現段階で知る手段はありませんが「孤独」をずっと抱えていたことが「進歩(変化)を求めない・過去に浸り切る」要因になっていることは間違いありません。彼女がこの段階から、どのように「挑戦する意識を持って」自らの未来を見出していくかが、今後の複線になっていきそうです。
またおそらくですが舞台創造科の仕事に関わることになった時点でばななの「舞台少女」としての挑戦は一旦、幕を閉じているっぽいですね。最新のスタッフインタビューなどから察するに、BD-BOX第3巻収録の一番最初の話数(9話)が彼女のメイン回であるらしいという情報も出ていますので、下手すればそれまでの間、ばななのレヴューオーディション参戦はないと考えるべきかと。となると今回描かれたのは、ばななのエピソードの起点かもしれないので、今後も舞台想像科とやりとりの描写が挿入されていく可能性は非常に大きそう。第二幕の縦軸としてエピソードが重ねられていくかどうか要チェックです。



次にこちら。ばななと舞台創造科の二人が見学していた『スタァライト』の稽古。双葉とクロディーヌがとあるシーンを演じている光景ですが、ここは舞台版、アニメ版を通じての新情報が明らかになっています。というより舞台版でも描かれなかったスタァライト』のワンシーンが稽古されているからです。以下に台詞を引用します。

双葉:星にひかれ、この塔に来たことが間違いだったのだ。あの光は残酷なもの。お前たちの望む奇跡など決して…
クロディーヌ:そんな…じゃあクレールの記憶はどうなるの? 私たちのあの思い出は…戻ってこないの?


赤字で示したところは特に重要な所。恐らくフローラと6人いる女神の内、一人との会話の応酬なのでしょうがどういう状況なのかはわかりません。しかし「あの光は残酷なもの」と指摘しているのに目を見張ります。あの光というのは「タワー・オブ・ディスティニー」の天辺に輝く光のことでしょう。となるとアニメ版ではこれが存在しています。



「星のティアラ」
双葉の演じる役が「残酷なもの」と言い放つ「光」は、アニメ版においてティアラとして存在しているのです。この「星のティアラ」はオーディションを勝ち抜いて、トップスタァにたった者がつけることのできる装飾品だと1話でキリンが語っています。さらにキリンは2話で「トップスタァは時を越えて輝き続ける永遠の主人公」とも言っています。これらが意味することはどういうことなのか。それを踏まえて、クロディーヌの台詞に注目すると「クレールの記憶はどうなるの?」と出てきます。
なんとなく何かが見えてきますね。これらを踏まえると、塔の天辺にある光を手に入れると、その者の記憶は失われてしまう可能性が出てきました。もし『スタァライト』という舞台と、レヴューオーディションの舞台がリンクしているのであれば、「トップスタァ=永遠の主人公」になる代償として、その人間の記憶は奪われてしまうという推測も立ちます。しかし、まだこれで全容が明らかになったわけではありませんからこちらも今後の展開に注目していくべきでしょうね。



最後です。今回のアバンシーンと1話の朝のレッスンホールの光景の比較画像。いろいろと顕著だったので、ここでご紹介。同じ場所での光景ですが、1話ではねぼすけでまひるに起こされてからレッスンホールでストレッチしていますが、5話では自主的に早起きして、ひかりと一足早くストレッチを行う光景が描かれています。まひると華恋、ひかりと華恋という対比ですが、同じような構図で画像を並べてみると非常にあからさまといいますか。同じような構図で画面を組み立てているのも分かる一方で、確かに変化しているんですよね、色々と。
変化する前、まだ「トップスタァ」になる意志もなかった時点では、まひるとともに朝日の光に包まれているけど、その意識が目覚めた後はひかりとともに影の中に立っているんですよね。この作品は舞台が題材になっているということからも、光と影の表現にはかなり気を使っているはずなので、ここの落差は気になる所です。なぜなら「トップスタァ」を目指しているはずの華恋が光を浴びてないわけですから。
今回描かれたまひるのコンプレックスとも繋がる話ですが、華恋はひかりが転校してくるまでは朝も一人じゃ起きられない、主役になれなくてもいいと思っていた少女です。もちろん試験を受かって、入学できているのだから何かしらの個性はあるのでしょうけども、それを生かすことも成長させることも恐らくはしてこなかったのでしょう。身の程をわきまえていた節も感じなくもないですが、自分が主役を演じるなんてことは思ってもなかったはずです。少なくともひかりと再会して、約束を思い出すまでは。
しかし彼女は変化した、してしまったのです。ひかりと二人でトップスタァとして同じ舞台に立つという『約束』を思い出した以上、彼女は物語の真ん中に立たなければならない。たとえまひるに起こされて、世話を焼かれる立場が華恋本来の立ち位置だとしても、です。1話のレッスンルームで彼女に光が当たっているのは「スタァを目指し、仲間と日々研鑽するいち『舞台少女』」に過ぎないからでしょう。愛城華恋という物語の主役として個性を放つ以前の状態といっていいかもしれません。それならば5話はどうでしょうか。一見、華恋に目覚めた情熱と覚悟によって、ひかりが引っ張られているようにも見えますがまったくの逆で、ひかりが華恋をそうなるよう仕向けている可能性も否定できません。4話感想でも語ったように、「ひかりの物語」がアニメ以前にあったと考えるならば、何かしらの理由で華恋を主役に仕立てる必要が出たので、自ら敵役に退いている風にも見えます。ひかりが誘導し、仕立てられた主役であるから華恋はひかりとともに影に立っているのではないか。と、ここまで書いて自分で言うのもアレですが、果たしてそこまで計算しているのか、というのも頭にチラつきます。



しかし上に挙げた最下段の画像をもっと大きいサイズで見ると、1話ではポジション・ゼロを示すバミリ辺りに立っている華恋たちが、5話ではそのバミリから遠い位置でストレッチをしていたことが確認できてしまいます。これも意図してのことなのかは非常に読めないところではあるのですが、もし意図しているのならば華恋とひかりの約束は叶わないという仄めかしなのではと邪推もしたくなってしまいます。
どこまで構成が練られているか、視聴者の側からは計り知れませんがもしそこまで緻密に組み立てているのであれば、という気にさせられてしまう「読めなささ」が舞台版などを見ていると出てくる作品なので本当に油断がなりません。当たっていてもいなくても、検証する醍醐味はありますね。というところで。


次回に続く
前回に戻る


※なお本感想はあくまで個人の印象によるものです、悪しからず。


〜余談〜
今回、ブログのサブタイトルにつけたのはビージーズの往年の名曲(もう40年前の曲)。ディスコブームに沸いていた70年代末に発表されたメロウなバラードですが、今回のまひるにぴったりだなと思って、拝借しました。歌詞の内容についてはそこまで合致してるわけでもないですが、直訳すると「君の愛はどれだけ深い?」という曲名なので。どんな曲かは以下においた公式PVをご覧いただければ。特に何がというわけではないですが、余談なので感想には関係ありません。



少女☆歌劇 レヴュースタァライト Blu-ray BOX2

少女☆歌劇 レヴュースタァライト Blu-ray BOX2