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Little fragments『東映版Keyのキセキ』没寄稿文(未完成)


※こちらは以下の評論誌『東映版Keyのキセキ』へ寄稿予定だった論考のアーカイヴ(未完成)です。
 お話を頂き、書き進めてはいましたがこちらの執筆状況が芳しくなく、書き進められないまま締め切り期限が近付いたこともあって、こちらから取り下げたものとなります。 



タイトルは「出崎統の失敗~劇場版「AIR」について~」
劇場版「AIR」を取り上げ、結果的に評価の芳しくない作品(=失敗作)となってしまった本作を顧みて、「どうしてそうなったのか」を検証する論考の予定でした。
東映版Keyのキセキ』主催者のhighlandさんには流用の許可を頂いていますので、とりあえず未完成の形ではありますが、ひとまずサブブログのこちらでアーカイヴしておきます。
いずれ続きを書く機会があるかどうか分かりませんが、完成品を読みたいという奇特な方がいらっしゃればお時間を頂いて、本ブログに記事としての投稿も視野に入れています。キリの良い所まで書いてはありますが、論考としては思い切り途中で終わっていますので、それでも宜しければどうぞご覧ください。


以下より本文です。


■はじめに

劇場版AIR」が公開されて15年が経つ。そして同作の監督にして日本の戦後アニメ史における重要人物の一人である、出崎統が亡くなって9年。来年(2021年)には没後10年となる。時の流れの早さを嘆いても、時は止まることはない。進み続ける時計の針に私たちは経過した時間の、残酷なまでの長さを思い知らされるわけであるが。

この文章を読んでいただいている方々は「劇場版AIR」についてどんな感想を持っているだろうか。原作ゲームに比較的忠実であるだろう京都アニメーション版と比して、出崎統ならではの原作改変が施されている(なおかつ出崎自身はゲーム自体をプレイしていない、プレイするつもりもなかったということも重なって)劇場版は多少なりとも原作ゲームを触れている人間においては多かれ少なかれ違和感を禁じえず(別物として認識される事が多いだろうか)、極端な意見になれは否定や拒絶、駄作という酷評を受ける映画として現在に至っている。もちろん近年、肯定的な評価も徐々に出てきてはいるが、当時の批判は出崎自身の耳にも届き、実際堪えたと述懐してる。

誤解を恐れずに言うならば、「劇場版AIR」は失敗作である。しかし失敗作イコール駄作だという安直な結論には持ち込みたくはない、というのが本論の趣旨だ。『失敗は成功の母』とも言われるように、失敗を得て何かを掴むということはままあることだろう。出崎統という稀代のアニメーション監督がいわゆる「泣きゲー」の名作として当時すでに評価の定まっていたゲーム作品をどのように演出して、何に失敗したのか。結果的にこのコラボレーションは相乗効果を生み出せず、不発に終わっている点を鑑みて、「劇場版AIR」という作品を改めて紐解いていきたい。


■『映画』というモチーフ

(出崎)【ダスティン・ホフマン主演映画「卒業」を引き合いに】 
映画は90分の映画で、89分59秒つまらないのがあったとしてね、たった1秒スゴいのがあったらね、全部できちゃうの。だから、その妙な自信がさ、てか確信が、自分がどんどん絵コンテ書いてさ、「あ、時間がなくなる!もうわしちゃう!」って言いながらね、粘れるのはそれだと思うよ。つまり映画の何かってのいうのが、神様がそこでたった一瞬で全部をひっくり返して、全部をね、こうパァって輝かせてくれるものがあるはずだ! ってなかなかないんだけどさ。でもそれを探しながら行く(中略) すべてがこう飛躍できるっていうか、そういうのがあるんだっていう。それが面白いよ。


~「劇場版エースをねらえ!」オーディオコメンタリーより抜粋~

20年現在流通している「劇場版エースをねらえ!」BD収録のオーディオコメンタリーにおいて、出崎はこのように語っている。氏の映画(作り)観がよく表れている発言だろう。たった一秒、一瞬でも冴えたカット、シーン、描写がありさえすれば映画は成立し得るものである、という辺りに創作に対する自負と信念が滲んでいるのが分かる。この発言を引き合いに出したのは「劇場版エースをねらえ!」と「劇場版AIR」は極めて近いスタイルの構成がとられている映画であるということだ。「劇場版エースをねらえ!」は初出の単行本で10巻分、「劇場版AIR」は総プレイ時間が約20時間程度の原作をそれぞれ一本の映画にまとめているわけだがむろん制作のプロセスは異なる。「劇場版エースをねらえ!」は一度完結したTVアニメ版をきちんと原作の第一部完まで描く事に主眼が置かれ、ほぼリメイクに近い形で制作されている一方、「劇場版AIR」は原作のゲームクリアまでにかかる膨大な時間とそれに伴って展開される膨大なシナリオを大胆に削ぎ落として構成している。どちらも90分ほどの映画に収めるには原作内容が長大な量であり、作品として構成するにあたって展開の省略と肉付けが必要された点ではこの二作は共通している。

大きな違いは「劇場版エースをねらえ!」がほぼTVアニメ版で描かれた展開のリメイク、もしくは再編集版であることだ。一度通過した道である分、作品を俯瞰して捉えることが出来たと言える。対して「劇場版AIR」は前述したとおり、出崎が原作ゲームをプレイしていない事と、作品の抽出作業を脚本の中村誠に委ねていた事も相俟って、脚本は改稿に改稿を重ね(オーディオコメンタリーを聞く限りでは6度ほど改稿している?)、最終的には各稿のアイディアを繋ぎ合わせて、出崎が絵コンテを起こしている。そんな紆余曲折の末に出来上がった映画であり、コメンタリーやビジュアルブックの発言では準備稿での面白さ(出崎曰く文章に描かれていない「間」が面白かったそう)が改稿を重ねるごとに失われていってしまった、と語っていることからも生みの苦しみがあったことは窺えるだろう。

これら二作品についての共通項はこれだけではない。出崎が原作内容から映画というモチーフを形作るにあたって、取り出している物語要素にもその共通性を見出すことは可能である。氏の手がけた作品において、原作を忠実に再現した作品は皆無であるのはよく知られている話だ。原作内容を叩き台にして、出崎自身が作品を向き合う事で原作での描写よりも一歩踏み込んだものとなったり、作品解釈の奥行きを広げたりと、監督独自の解釈が良くも悪くも出来を左右していると言って過言ではない。「劇場版エースをねらえ!」「劇場版AIR」はその点でいうと非常に好対照だ。前者は出崎の手法が作品に対して見事に結実しているが、対して後者では出崎の解釈と作品内容が実は噛み合っていないのではという疑念が浮かんでくる。映画を構成する上で原石(原作)から切り出された大枠の要素において、両作が共通しているのは「男と女」「相手役との死別」あるいは「母親」の三点だ。同じ監督が手掛けているのだから当たり前だが、物語構造や性質においては重なるどころか、ジャンルすらもまったく異なる作品同士が「映画」となった際に、描き出された要素が似通うのはまさしく「個性」といって他ならないものだろう。しかしこれらの作品評価を眺めるに、出崎自身の「個性」が「作品」と噛み合ったのが「劇場版エースをねらえ!」であり、それらが噛み合わなかったのが「劇場版AIR」だと言える。これは興味深い現象ではないだろうか。かたや出崎の最高傑作のひとつと語り継がれる作品。他方、フィルモグラフィの中でも評価の低い部類に落ち着いている作品。どちらも「映画作品」であり、(物語の質感が違えど)出崎自身の「個性」がパッケージングされているのにも関わらず、この評価の落差は一体どういう事なのであろうか。

個性が噛み合った映画と噛み合わなかった映画。この二作品がどうしてそうなったかには何がしかの理由があるはずなのだ。元より原作を叩き台にして、自らの感性に基づいて作品を仕立ててしまうことから原作クラッシャーとも揶揄されてしまうことも少なくない出崎作品である。そして両作品ともに原作から離れた描きがあり、なおかつ上記のような共通項も見出せる映画なのだ。この事実から、この二作品は表裏一体の映画であるように筆者には思える。「劇場版エースをねらえ!」が成功例であるならば、「劇場版AIR」は失敗例なのである。出崎自身の「個性」にブレがないと考えるのであれば作り出された「成果」として、両作品の評価の温度差は面白いほどに違う。

なぜ「劇場版AIR」という映画は失敗してしまったのか。そこを紐解くために成功例である「劇場版エースをねらえ!」を踏まえて考えていきたいというのが本稿の趣旨である。


■『青春』というモチーフ

「劇場版エースをねらえ!」「劇場版AIR」の両作はそれぞれ趣の異なった映画だがどちらも青春を描いている。「劇場版エースをねらえ!」は主人公、岡ひろみがコーチの宗方仁にその資質を見出されて、テニスプレーヤーとしてその才能を開花させていくストーリー。「劇場版AIR」は旅芸人(なのだろうか)である国崎往人がとある海沿いの田舎町で出会った神尾観鈴とのひと夏の出来事を描いた物語として繰り広げられていく。前者は競技テニス、後者は原作のSummer編、平安時代を舞台にした翼人伝説をモチーフにしたエピソードをザッピングしながら、往人と観鈴の交流が主題である。青春を映画で描く、この映画が共通しているのは前項で上げた共通点からも明らかだ。では、反対にどこがどのように違うのか。一番の違いは各作の主要男性キャラであろう。

宗方仁と国崎往人。物語上において、各人ともヒロインを見守る相手役の役割を担っている。作品の性質上、宗方は(スポ根)少女漫画の主人公を叱咤する鬼コーチで、往人は美少女ゲームにおける(プレーヤー)視点人物である。なおかつ往人は登場するヒロインが抱える問題に(解決するのではなく)寄り添う人物としても描かれる、二面性を抱えたキャラクターであるのは言うに及ばない所だろう。宗方と往人の違いもまさにそこである。両作が物語構成的にスタイルが似ていると先にも述べたが、男性キャラの立ち回り方だけを取ってみると全く異なっている。端的に言えば、宗方はひろみの勝利を見届けたのち病床に臥してその命を全うし、対して往人は観鈴の死を胸に刻み、あてどない旅を続ける。これら映画の結末は非常に対照的だ。自分の夢をひろみに託して息絶えた宗方と観鈴の影が心に焼き付けられた往人。登場する男性の、物語の関わり方や主体性が異なるのは重々承知の上であるが、やはり宗方と往人はヒロインの関わり方、影響の与え方が正反対なのである。以下に各作劇中のセリフを引用する。


【町に訪れた理由(祭りの開催)と人ごみの集まるが嫌いなのに祭りならいいのかという観鈴の問いに対して】
(往人)「わからない…でも祭りならなんか、みんな血が燃えてて、本気で笑ってくれそうな気がする…」
観鈴)「そうなんだ、本気ならいいんだね……(往人は無言)……本気が好きなんだ……」
(往人)「…せえな! 関係ねえだろ! ……本気の本気なんてのはまだ見たこともない! 存在しないんだよ!」


【サーブ・レシーブの実力テストの説明の後に】
(宗方)「始めろ!! 時間を無駄にするな!! ……時間を無駄にしていかん」


これらのセリフは宗方と往人のスタンスを大きく分けるものであるように筆者には感じられる。一口に言ってしまえば、精神的に大人であるか子供であるかの差に過ぎないのであるが、ゆえにこれらのセリフの論点になっているのは、「青春」というモチーフなのだ。両者のセリフには「青春」のどこに自分の身を置いているのかが滲み出ている。「劇場版エースをねらえ!」における宗方はセリフ自体が多くなく、ましてや心情が語られる場面はごく限られているが、上記引用には彼が青春の「外側」に位置しているのが見て取れる。「青春」、つまりモラトリアムとは限られた時間の中でしか存在しえない空間なのだ。作中において宗方は20代後半(死亡時は27歳)であることからも、すでに「青春を通り過ぎた人間」として岡ひろみを始め、青春真っ只中の県立西高女子テニス部を「俯瞰」している。その長いようで短い「青春」という時間を無駄にするなと叱咤するのは、すでに通り過ぎた者としての「義務」であると同時に自身の余命に対する自省も覗かせているのが興味深い。それは「劇場版エースをねらえ!」自体がTVアニメでは描き切れなかった原作第1部を描き切るために物語を「俯瞰」して構成されている事とも符合している。青春を外側から見つめる宗方と内側からその二度とない凝縮された時間を生きる岡ひろみ。彼らの関係は師弟関係である以前に、そういった青春の内と外によって結ばれる関係性であり、いずれはひろみもまたその外側に出ていくことが運命づけられているといっても過言ではない。無論、映画ではそこに至るまでの描きはないが、いずれは乗り越えなければならない頂が示唆されているのは疑いようのない事実だろう。


(小黒) 出崎さんがこれを作ってるときに「光と影で青春を描く」と仰ってたという話を聞いた事があるんですが。

(出崎) 覚えてないけど、まあそらそうだろうね。というよりも青春というのは「光と影」ですよ。多分、自分の若いときのことを思い出してみると、そういう風に思い出としてね、影が恥ずかしいことだったり、光がちょっと得意なことだったりするのかもしれないけど、人によって違うけど、そういうコントラストで残ってるような気がする。 


~「劇場版エースをねらえ!」BD収録オーディオコメンタリー(出崎統小黒祐一郎)より~


このオーディオコメンタリーにおいて出崎自身が「青春」を「光と影のコントラスト」と認識していることが読み取れるが、これを作中に照らし合わせてみてば、ひろみが宗方に見い出され自らも不相応だと認識しながらも、お蝶夫人こと竜崎麗華を始めとした周囲の視線に耐え、テニスの魅力に目覚めていく一連の流れは起伏に富んだ影(過程)とその先にある光(結果)によって構成されているのが分かるだろう。先ほどの青春の外と内で考えるならば、青春の真っただ中にいるひろみはまばゆい光であり、それを外側に眺める宗方は死を背負う影でもある。宗方とひろみの関係性のみをピックアップしてゆくと、「光と影のコントラスト」とは二人の師弟関係そのものであるし、宗方に選び出されてしまったひろみの成功と苦悩のコントラストによって、作品が色濃く描かれている。その点からも二人の立ち位置が「青春」というシチュエーションにおいて、はっきりと分かれているのが作品の明快さにも結び付いているのではないだろうか。

(中村) いわゆる監督の特有の演出方式みたいに世の中で言われていることがあるじゃないですか。たとえば「黒み」とかもありますよね。「黒み」はやっぱ意味があってやられているというのはあると思うんですけど、たとえばそれってどういう意味合いっていう。

(出崎)いや、俺もねどっかでずるいなあと思ってるんだけど、光と影をある程度意識的にね、それを追っていくと映像は光と影でできているんだと思うんだけどさ。いつでも「黒」になれる。追っていくとね、「白」にもなれるし、光とつまり影の中で、これは影が、究極の画面なんだけどさ。心の中ってイメージがすごく強くて。そっから少し光が差し込んで「画面」になっていく。当たり前のことなんだけど、でもそれを心の中を、映像に出来ない時、逆に映像にしたくないって時に「黒」が来ちゃう。その割には「白い画面」はないんだけど、光があるとなんかやっぱりものが見えなきゃいけないだろうなっていう感じがしてて、そうなっちゃってるんだけど、変わっていくと思いますけどね。なんとなく自分のところで行き詰ったときに問題救済の一手として「黒い画面」が来ちゃったりするんですよ。


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~


劇場版AIR」のオーディオコメンタリーでも先ほどの引用と似たニュアンスのことを出崎は発言している。ここでは直接表現と婉曲表現を白と黒、つまり光と影で住み分けているように読み取れるだろう。「画面」はこれらが混ざり合う形で成立するが、心情を読ませない表現として黒(影)が究極の画面となって表れてくるとしている。それはいわゆる仄めかし、あるいは婉曲表現となって、観客に解釈を委ねる事となるがやはりそこのコントラストがあればこそ、映像は成立していると出崎が言っているようにも思える。無論これらを青春に置き換えても、その事は明白だろう。特に「劇場版エースをねらえ!」においては、主要人物であるひろみと宗方を中心として、この「光と影のコントラスト」が作品全体に行き渡っている。「光と影で青春を描く」のが映画としての主眼であるのならば、恐らくどこから切り取ってもそのコントラストが成立している作品だという印象を持つのだ。では対して「劇場版AIR」はどうだろうか。再びオーディオコメンタリーでの発言を引用する。

(出崎) ほんとにこう、観鈴という人の若者としての危うさ、みたいのをね? 俺はすごく感じたのよ、最初。それがすごく面白いと感じたのよ。そういうことを映像で表現していく、というのはなかなかないから。ある意味で言うと僕は今まで色々、色んな仕事をやってきたけど、本筋の仕事だな、ってちょっとしたのよ。んで、一所懸命やってみようかなって思ってみてさ。

(中村) 僕もその原作を読んだ時に、その感じたのは若者がみんな殻に閉じこもってるなっていう感じがあって。で、原作だとそれがなんとなく打ち破られないままちょっと終わっちゃうみたいなとこがあったんですよ。で、それはなんかどうなんだろっていうのがちょっと気持ちの中にはあって。そこをこう、破る話みたいな? そういう方がいいんじゃないかって気持ちみたいのを少し入れてった、まあ入れてったんでしょうね。


(出崎) 若者がね?自分の世界の中に逼塞というかね、閉じこもって、で、そんな中で色々判断して、そういうことはね、殻から一見出られないようだけど、その。どっちみち大人になってくわけで。んで、世の中でもっともっと厳しいことに実際に出会ってってすると、その、殻に閉じこもっちゃいらんなくなるはずだと思うのよね。だから、それも描きたかったのよね、俺はね?でなんか人との出会いとか、まあそれはトラブル嫌いな人も多いけどさ。修羅場とか経験していくとそういう殻が死ぬと、「あの殻ってなんだったんだろ?」って思うぐらいにね、その脆弱なね、なんか薄いものになってってさ。いつの間にかその中から抜け出てる自分とかさ、なんか別のことに集中して、一生懸命に生きようとかすると、その殻が溶けてく、ような気がすんのよ。俺、まだ殻持ってるけどさ(笑) 


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~


ここでは出崎が「劇場版AIR」を制作するきっかけを話しているのと、脚本を担当した中村誠の原作に対する印象が語られているのが興味深い。出崎本人が「本筋の仕事」と感じるに至っているのは、登場人物たちの持っている若者ならではの閉塞感から来る危うさに惹かれて、という所にあるようだ。中村の方も同じように原作ゲームの登場人物たち(というよりもメインの受け手である、当時の若い世代)の「殻に閉じこもった」感覚を掴んでいる。ここでいう「殻」というのと「青春(=モラトリアム)」は同義であると考えられる。つまり監督と脚本家、その両者ともが原作ゲーム(出崎は中村の準備稿を読んで、だが)から感じられる「モラトリアムに閉じこもる若者像」を打ち破る話として「劇場版AIR」を手掛けたという事で一致している。ここは「劇場版エースをねらえ!」がモラトリアムを内外から捉えている物語として描かれているのに対して、大きな違いだと言えるだろう。そういうテーマのもとに作られている作品であるからこそ、「劇場版AIR」は徹底してモラトリアムの内側の話なのだ。

ゆえに「劇場版エースをねらえ!」の宗方仁に対して「劇場版AIR」の国崎往人はモラトリアムの内側に属する人間である。年齢設定も22歳と20代前半であること(進学していれば大学生の年齢)からもまだ「青春の最中」にいるのは間違いない。出崎・中村の言う所の「殻に閉じこもった若者」であり、その閉塞感から生まれてくる焦燥や行き場のないエネルギーを抱えている人間であるのは、先に引用した劇中のセリフに込められた「本気の本気なんて存在しない」という斜に構えた諦念からも感じ取れる事だろう。両作の映画としての成り立ち方が異なるのは先に触れているが、「俯瞰」して捉えることが出来た「劇場版エースをねらえ!」に比べると、「劇場版AIR」は極めて主観的な映画だと言える。それはつまり「青春」の描き方としては当事者性の強いフィルムでもある、ということだ。

往人は青春の渦中にいる。ヒロインである神尾観鈴もそれは同様だ。「劇場版エースをねらえ!」での宗方とひろみの関係性はテニスという競技においての師弟関係、あるいは青春の内と外に隔てられた上下関係といえるだろう。青春を「光と影のコントラスト」と出崎の言うように捉えた場合、宗方とひろみではどちらが光でどちらが影であるかが明確に分かれていくが、往人と観鈴の場合はそれぞれに「光と影のコントラスト」を内包している。同じ渦中にいる男と女として、お互いの欠落を感じ取り、それぞれの内面の深い所で結びついていく物語として出崎は「劇場版AIR」を仕立てている。

往人が宗方と異なるのはこの部分である。宗方はその身を青春の外に置き、あるいは自らの死期が近いことも察して(あるいは国内女子テニス選手のレベルを底上げするという使命感から)か、ひろみとはコーチと選手の関係を超えることはなかった。むしろ彼らを結び付けているのはテニスという球技であり、宗方はひろみに亡き母親の影を見てもそれ以上の感情を起こすこともなかったのだ。岡ひろみの青春に恋愛という比重が大きくかかることはなかったのは、宗方自身が既に青春を過ぎた大人であり、同時に死の影を抱えた人物であったことが大きく起因しているだろう。どちらにせよ、二人の間に恋愛以上の関係が生まれなかった(ように見える)のは、感情から生まれる欲求や葛藤をスポーツによって昇華することが出来たからに他ならない。青春という「光と影のコントラスト」をスポーツという外的な要因で処理できる作品構造である事と、宗方という存在位置がその中心から外れている事、加えて背負わされている物語機能(道半ばでの死)も相俟って、映画の中ではひろみの青春に影響を与えてもわだかまりを残すことなく去っている。

逆に国崎往人の場合はまだ「取り残されて」いる人間だ。青春という大枠の中で観鈴と同じ場所に立っている。この二人の場合、間にお互いの感情や葛藤を受け止める緩衝材的要因が物語上に存在しておらず、お互いがお互いの感情や葛藤を受け止めなければならない構造となっている。それは原作が美少女ゲームという性質上、避けられない問題であるし、「エースをねらえ!」もスポ根ものという性質から映画で抽出された関係性がストイックなものになったとも考えられる。ともかく往人と観鈴プラトニックな域を抜け出さないが、それぞれの「光と影」を受け止める格好で深い結びつきを持つに至る。だが「劇場版エースをねらえ!」とは反対に死別して「取り残される」のが男性側である往人なのだ。青春という「光と影のコントラスト」を処理してくれる対象が失われてしまうことで、彼の心の中にはわだかまりを抱えてしまう。観鈴の死という大きな傷を抱えて、往人は再び放浪の旅に出る所で物語は終わるが、その感情の流れは「劇場版エースをねらえ!」のひろみが宗方の死を引き摺らず(むしろ知らぬまま)終わるのと比べても、非常にドロッとしたヘヴィなものに感じられる。たとえわずかな時間でも同じ青春を生き、お互いの「光と影」を共有しあった者同士だからこそ、死せる者と生きる者のコントラストが色濃く表れてくるのだ。青春の中に死んでいった観鈴と青春は過ぎても人生が続いてゆく往人、それは宗方とひろみの関係とは異なり、一方は青春の中に死を伴って閉じ込められ、他方、青春の中から外へ解き放たれて生きてゆく(もちろん解き放たれるためのダメージは負っている)という「生と死」のコントラストも重ねられている。コメンタリーでの発言を拾う限りでは、出崎は映画を通じてそのように作品を捉えていたように思えるのだ。

(以下発言は全て出崎) キャラクターたちがなんかこう変化しようとする時にね、それはその自分の意志と同時に周りの幸運というか、どんな厳しい状況でもね? それは幸運だと思うのよね、それは自分を変えなきゃなんない状況にぶつかったりするとね? だから俺、なんか殻ってそういうものだと思ってるし、大いに固まってるときにね、その殻に入ってる時に自分を見つめてくれればね、絶対溶けてくんだと思うんだよね。だからこの往人くんなんかもね、殻とかね

死んだのか、死に対する考え方って色々とあると思うんだけど、それが残っていくし、なんか誰か人の心に渡していくしっていうのはずるいけどさ、だけどそれがせめてもの救いだよね。だから往人が最後にね、観鈴のキーホルダー持ってるって、つまんねえことだけど! とりあえず俺の心の中にあいつが残ってるよみたいな。一生残れよ、この野郎!とかって思いで、俺はラストシーンつくったんだけど、でもまあ往人の、ねえまたねえ、きっとね、可愛い子なんか出会ったら、忘れちゃうんだろうなあ…(笑) それもまたしょうがないよな?


~「劇場版AIR」DVD収録オーディオコメンタリー(出崎統中村誠)より~

上記引用からも見て取れるが、若者のモラトリアムに閉じこもった状態を「殻」と出崎・中村両氏は表現している。どちらの認識もそれはいずれ破らなければならないものという点に立脚しているのは明らかだ。 かのヘルマン・ヘッセが代表作「デミアン」において「鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。生れようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」と記していることからも分かるように、出崎は青春をヘッセの語っている「卵の殻」として捉え、往人や観鈴に破らせようとした。それが出崎の狙いであったように感じられる。

しかしその狙いは「AIR」という作品を考えた場合、やや的外れに思えるのも事実なのだ。「青春」というモチーフに基づいた映画における登場人物の構図としては物語の定型に則っているのだが、「劇場版エースをねらえ!」と比べると「劇場版AIR」、ひいては原作「AIR」そのものが作品として重層的な構造となっている為に、「青春」というモチーフだけを取ると「劇場版AIR」は物語として、「ズレ」が生じているように見えるのだ。それは先ほども説明したように作品自体が「青春」の当事者性の強い主観的な内容であり、同時に「青春(モラトリアム)」の中で登場人物たちがより内面に向かっていくことで深く結びついてく物語でもあるからだ。そしてそこにまつわるモチーフとして「恋愛」が絡んでくることとなる。次項では話題をそこへ触れつつ、映画に生じた「ズレ」を見ていきたい。