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朝日奈みらいは魔法つかいの夢を見るか?〜『魔法つかいプリキュア!』第1話検証〜

どうも。今回は検証記事です。
魔法つかいプリキュア!」にまつわる仮説を画像引用を交えつつ、考えてみたいと思います。何故かってBD1巻を買って改めて第1話を見返したところ、情報が初見時よりも多く拾えたからに他なりません。いや、正直に言えば今年のプリキュアは物語に掴み所がなくて、一時期はソフト購入もどうしようかなと思ってたくらいでして。そうならなかったのはこの「魔法つかいプリキュア!」に引っかかる「何か」が心のどこかにあったからなわけですが。今回はその「何か」を検証してみようと言う趣旨の記事です。
物語は現時点(2016年10月現在)で3クール目を終え、いよいよ最終クールに突入。ここまで繰り広げられてきた物語の情報をもって、第1話を見てみると結構発見があったりと言うのはよくあることですが、今回もそんな「長期シリーズの土台」になる話数だったのではないかと。というか、1話で提示されている情報を検証すると今後の物語の道筋もなんとなく想像できそうなんですよね、今回。
この記事で立てた仮説が当たってるかどうかは今後の展開次第なわけですが、それはまあともかく。これも、まだ終わりのわからない作品を楽しむスパイスとして読んでいただけたらなあと思うわけです。これは未来の話ですが、放映が終わってから見た方にはこういう予測があったんだなあという感じで眺めていただけたらなと。
では前置きはこのくらいにして、本題に入ろうと思います。仮説は三つあります。そのどれもが本編の主役である「朝日奈みらい」にまつわる事柄です。先に仮説全体の主旨を申し上げれば「みらいは物語の根幹を握っている」ということです。具体的にどういうことなのか。以下より始めていきたいと思います。


仮説1【魔法つかいはみらいが作り出した?】
魔法つかいプリキュア!」は朝日奈みらいの物語である、と言い切ってしまうと過言かもしれません。が、筆者の見立てでは少なくとも「物語の中心、あるいは起点」はみらいという人間だと思えてならないのです。理由はこれから提示していく仮説の様々に含まれているわけですが、まずは一番単純なところから。この作品の「魔法」、または「魔法つかい」はみらいが作り出したのではないかという仮説。画像を確認しながら見ていきましょう。

一連の画像は第1話のアバンシーンから。この作品は「円」のイメージが全体を支配していて、このアバンシーンも「満月(円)」で始まって、「満月(円)」に終わっています(※ファーストカットの満月は引用の1枚目に小さく他の画像とまとめてしまってますが)。
春の満月を見ながら、短い春休みのとある夜を過ごす未来。まだなにも「起きて」いないので、モフルンはただの人形だし、みらいもここまでは普通の女の子。ところが……。というのが一枚目の流れ。月(=円=魔方陣)をモチーフに、物語の始まりを示す「兆し」がみらいの目の前に現れます。一枚目の一番下右、みらいの「眼」をクローズしたカットは1話において、かなり重要な意味づけを表しています。

みらいの「視線」の先に現れた「魔法つかい」のリコ。一枚目中段の月の周りをほうきに振り回されて地上に「落ちてきた」、ちょっぴりドジな魔法学校の生徒。この時点で彼女の存在を確認しているのは「猫」のみ。

二人がこの世界で出会う縁(円)を月(=魔方陣)が結んだ事によって「新しい物語」の始まりが示される。月はすべて見ていた。続けて見ていきます。

ここから本編Aパート。「ぬいぐるみ」のモフルンとリンクルストーンになる「ペンダント」。この後に起こる「変化」を描くための対比で「まだ物語で意味を持たないもの」として提示されている。もちろんどちらも重要な存在かつアイテムとなるのは言うまでもなく。

ちょっと判り辛いですが、お手伝いのご褒美にリンクルストーンのペンダントをみらいが貰うくだり。取り上げてはいませんがこの場面でも先ほどの「眼」のカットを挟まれてます。中段のみらいの画像の前後くらいに。これも彼女が「見つけて」手に入れた事に注目。

場面は変わって。みらいは昨晩見た「魔法つかい」を探しに、近所の公園へ。ここもかなり重要な部分です。状況の対比が描かれているわけですが、左上段では公園に人がいる当たり前の光景が提示されています。が、みらいが向かった先の遊歩道(左下段)には人っ子一人通っていない。アニメならではの演出というか省略というべきなのでしょうか。これから出会う二人の印象を強くしたいという意図もあるはずで、さらに飛躍して別の意味合いも出ていそう。それが今回の記事のキモなのですが……。下段右で先ほどの猫が再登場しているのも、自分にはそういう「仕掛け」に見えるのです。

みらいがリコと出会うシーン。おそらく第1話で最も意味深なシークエンス。「まだ」動いたり喋ったりしないぬいぐるみのモフルンにカメラの主観が移って、彼女たちが「空間」ですれ違っていく。このすれ違いを「見ている」のはモフルンのみ。三段目左のモフルンの瞳にリコが映り込むのは非常に意図的なものに思えます。

そして次のシークエンス。意識すら持っていないモフルンがみらいにリコの存在を気づかせる為、まるで生きているかのように籠から零れ落ちていく。当然、モフルンはぬいぐるみなので動けないし、立ち上がる事もない。このままではみらいは半身の様な存在である「ぬいぐるみ」を失くしてしまう───。

はずだった。が。リコが気付いて、みらいに声をかけた。というよりはモフルンがアシストしてみらいにリコを気付かせた、の方が正しいか。「空間」の上下が合わさって、「世界」が生まれる。ここでもみらいの両目をクローズしたカット。そう、みらいは「魔法つかい」を「見つけた」のだ。

仮説1の趣旨としては「みらいが見つける」というプロセスを通じて、「魔法」や「魔法つかい」が実像を帯びたのではないか?という点です。これは哲学で言う、認識論の一つで独我論と呼ばれる考え方ですが、極めてざっくりとまとめるならば「自分が存在していると確信できるものは自らの精神だけであり、それ以外の存在や認識は信用できない」というもの。デカルトの有名な言葉「我思う、ゆえに我あり」も「自分を認識している自分がいるからこそ、自分がいる」からこそ様々な事象を捉えることができるという発想に基づく言葉です。同じように「魔法つかいプリキュア!」の世界では「みらいが認識したことで魔法や魔法つかいが存在するようになった」ように見えるのですね。ここまで説明してきた描写にはかならずみらいの「視線」が入り込んでいます。リコとの出会いにはぬいぐるみのモフルンのサポートがあったと言えなくはないですが、最終的にはみらいが「見た」事であの邂逅は成立している。

セレンディピティ、偶然から生まれた幸運、がみらいを支配していると言うか。あるいはモフルンがその持ち主なのか、そこら辺は解釈の余地がありますがみらいというキャラクターに視点を合わせると、彼女を起点に物語の背景が広がり、組み上がっていく。そう、彼女が見たものすべてが、彼女の世界であり彼女の紡ぐ物語なのです。そういった不思議なニュアンスが物語を支配している。今回立てた仮説を探れば探るほど、朝日奈みらいというキャラクターにフォーカスしていくことになります。

仮説2【世界はみらいに都合よく動いている?】

こんなこといいな できたらいいな
あんなゆめこんなゆめ いっぱいあるけど
みんなみんなみんなかえなえてくれる ふしぎなポッケでかなえてくれる
                              ドラえもんのうた』より抜粋

唐突にいまや懐かしの大山のぶ代期「ドラえもん」主題歌の引用。
仮説1で「みらいが認識したことで魔法と魔法つかいが存在できるようになった?」可能性から一歩飛躍して、「魔法つかいプリキュア!」の作品世界がどうもみらいの都合がいいように、つじつま合わせされてしまっている?と言うのが仮説2の主旨です。そこに絡んでくるのが「ドラえもんのうた」なのです。注目してほしいのは「こんなこといいなできたらいいな」の部分。色々出来たらいいなと思う、子供の夢(願望)をドラえもんと四次元ポケットは叶えてくれるというの引用歌詞の大意ですが、「魔法つかいプリキュア!」では物語世界がみらいの願望を叶える予兆を与えています。つまりみらいの「こんなこといいなできたらいいな」を実現しているわけです。また画像を見ていきます。

アバンより、月に舞う不思議な物体(リコ)を目撃したみらい。すぐさま家を抜け出して探しに行こうとした所、親に見つかる場面。みらいの言うところのわくわくもんの不思議を親にも信じてもらおうと、一生懸命説明するけど結局信じてもらえず、という場面。この後の展開を考えると、実は「こんなこといいかも」っていうみらいの「空想観」は母親の「現実観」によって、ここで一旦否定されているんです。大人の母親にとってはそんなもの、「非現実」だからです。けど、子供なみらいにとってはそれも有り得る「現実」に見えているわけです。

サブタイトル明けからすぐの、お店の(おそらく)開店準備場面より上段左。みらいは昨晩の興奮冷めやらずといったところで、母親の方はやれやれといった面持ち。温度差が見え隠れする中、上段右でみらいのおばあちゃんが「それは魔法つかいなのかもしれないね」と言い出して、みらいの「願望(空想)」を受け入れてくれる。ここでも我が意を得たと言わんばかりに、中段のみらいの「瞳」カットが差し込まれる。ここで「こんなこといいなできたらいいな」(可能性がゼロに近い)が「そうかもしれない」と可能性の期待値がみらいの中では上がってるのにも注目。母親は可能性を否定したけど、祖母は可能性を残した。この事が物語をみらいの「願望(空想)」へと引き寄せているようにも見えます。

で、実際。みらいは「魔法つかい」の存在を信じて、公園に捜しに行ったら本当に見つかった。というより、仮説1で説明したようにみらいがリコ(魔法つかい)を「確認」したことによって、存在を得たことでみらいの願望(空想)が現実になってしまった点はこの物語においてかなり重要な出来事のように思えるのです。

そしてもう一点。みらいの願望(空想)では「魔法つかい」の存在より「モフルンとお話してみたい」という願いの方が実は強かったりするわけですが。引用部分はその理由が語られる場面です。なおここの桜の木陰の場面は仮説3でも使用します。生まれた時からずっと一緒だからお話できたらいいな、という無邪気な願い。ここの木陰に入る直前辺りからの会話は作品の根っこのような部分だと思うのですが、それはさておいて。

上の引用からの続き。ざっくり会話内容を説明すれば「一心同体のようなモフルンと離れ離れになりそうだったのをリコが助けてくれたことへの感謝」です。それだけみらいにとってはモフルンは切っても切り離せない関係であること。それゆえにみらいはモフルンと話すことを夢見るわけなのですが。そもそもリコの発言によれば「ぬいぐるみ(無機物)を喋るようにする魔法はない」との事。もし出来たとしてもそれは容易な技ではない事が明言されています。

しかし、みらい(の願望)はそんな制約すら飛び越えてしまうのです。引用は場面が飛んでBパートの終盤(最下段の二つのみ別場面の引用)。なんとか敵を退けた後、モフルンが急に喋り出す場面。シーン自体はかなりコミカルな組み立て方ですが、描写はここまでの語ってきたことを踏まえると物語の根幹が変わるほどの大きな変化に感じます。なにしろ魔法界の常識が覆っているわけですから。モフルンが話し出した要因は次の仮説3でも触れたいと思いますが、みらいの願望はここでも叶えられている。まるで彼女に都合のいいように世界は「変化」しているのです。

仮説2は仮説1の裏付けのようなもので「世界がみらいの空想に影響を受けた」事によって、「魔法」や「魔法つかい」が作り出され、それらは彼女がその眼で「確認」することで存在を得たというのが一連のプロセスに見えます。「ドラえもんのうた」にあるようにみらいの「こんなこといいな できたらいいな」が何らかの原因で実現している事に引っ掛かりを覚えずにはいられません。少なくともこういった目線で見ていると、みらいと作品世界の成り立ちが密接に関係している、と見た方がしっくり来てしまう。しかし、筆者の見た範囲(34話まで)では説明してきた一連の描写に対する説明や原因が今のところないので、単にそういう風に見えるだけ、な気もしなくはないですが。ただそう片付けてしまうには、最初にも言ったようにすごく引っかかりを感じてしまうわけで。ここで語ったことが本編でも取り上げられたらいいなと思いつつ、筆者なりの情報を整理しています。とはいえ、語りたいことは仮説3で最後ですけども。


仮説3【物語はみらいの為にある?】
仮説1と2を踏まえて考えていくと、物語はみらいを中心にして動いていると言ってもあながち間違いではなさそうです。翻って言えば、「魔法つかいプリキュア」という作品においては「みらいの成長」というのが物語の根底に流れる主軸なのではないか?ということなのです。筆者が改めて第1話を見直した際に感じた印象はまさにそれなのです。

みらいとリコ。本当ならば出会うはずがなかった二人。仮説1と2が正しければ、みらいが作り出した「もう一人の自分」という見方も可能です。OPでも「ノリちぐはぐ、趣味バラバラ、性格真逆」と歌われるように全てが反対というのも何か意図的なようにも思えます。引用画像はありませんがOP映像は前期後期とも未来とリコは表裏の立ち位置で描かれています。前期は魔法界とナシマホウ界が鏡面のような境界線で表され、後期ではみらいとリコが回転して、それぞれの世界の生活が表現されています。メインキャラ二人と二つの舞台、それぞれが二面性を抱えた存在であり、世界であると考えられます。それはつまり「現実」と「夢(空想)」の対比でもあります。どちらがどちらであるかというのは「物語の中心がみらいである」という点を踏まえれば、言うに及ばずでしょう。

「夢」と「現実」が手を繋ぐ時。あるいは別世界の「自分」が出会い、繋がる時。想像がつかないほどの力(=魔法)が生まれても不思議ではないのです。みらいとリコは出会うべくして出会い、「物語」が始まったとも言えます。しかしながらこれら全ての主体は朝日奈みらいという人物だと、筆者は考えています。仮説1と2に振り返ってみれば、みらいの「現実」は彼女自身の「夢(空想)」によって変容しているし、物語は引き寄せられています。引用した画像でも、みらい(現実)がリコ(夢)を手繰り寄せて生まれ得たものとして「魔法」があるし、みらいの想像力もまた「魔法」の源であるような描写が1話から拾うだけでもこれだけあります。そのように考えていくと、以下の引用部分は「みらいの成長」として物語を見る上で重要な描写でもあると思います。

仮説2でも使用した、桜の木陰に入り込む会話のシーン。みらいとモフルンの関係性が語られる場面でもありますが、この前段階として仮説1で用いた邂逅シーンも合わせて、見ていただくと分かりやすいかもしれません。みらいを現実、リコを夢(空想)、モフルンがそれらを繋ぐものと見立てるとなかなか興味深い。邂逅シーンでは現実と夢を接続するモフルンを失いかけるが、夢の象徴であるリコがそれを防ぎ、現実の中心にいるみらいが気付く、というもの。モフルンがいなければ、現実と夢は繋がらない。それはどういう事なのか。つまりみらいにとって、モフルンは「童心」そのものだということなのです。
幼い頃に感じていた実感と成長してから得た実感のギャップ。例えば、ジャングルジムや滑り台、他の遊具などがなにかわくわくするアスレチックだったり、公園や学校の校庭が行けども行けども回りきれない広大なものだったような錯覚。ありていに言えば、子供の目線と大人の目線の差。もっと言い換えれば、夢(空想)と現実の差です。成長するにつれて、人は「現実」という視点を得て、物の見方を体得していきます。その一方で、幼少期にあった空想に満ち溢れた視点は失われていきます。大人に近づくにつれて夢と現実の区別が付く、と陳腐な言い方をしてしまえば簡単に定義づけられてしまう世の理です。
改めて、引用画像を見ればこの三つのキャラクターが画面に同居している事がある意味では「呪い」だとも言えます。モフルンと言う「童心」を持ち続けている事で、本来思春期の成長で促されるべき「夢と現実」の区別が出来ていない状態が広がっているのです。上段左から桜の木陰に入っていき、暗がりの中で天に掲げたモフルンを笑顔で見つめるみらい、木陰の中でさらに日陰になって、一番暗く見えるモフルン、それを眺めるリコ。そして木陰の中で同居する後姿。彼女たちの感情をマイナス面に動かさずに、背景や光と影の表現を見立てにとって、この構図そのものの危うさを演出して見せているのです。

続く場面の引用。木陰からまた陽のあたる場所に戻ってきて素直に感謝を表現しているのは、みらいがこの問題そのものを問題視していない、あるいは無自覚であるという描写でもあり、みらいはリコ(=魔法つかい)を認識できる心の持ち主だと言えます。まだ夢と現実が未分化な状態。

さらに場面の続き。上段左で「分かれ道」に突き当たる二人。ここでリコと別れれば、現実に返るということになるのだけれど、仮説1と2で検証したようにみらいにとって「都合のいい夢」が実現しているのでリコの手伝いをする事を選んでしまう。もちろんみらい自身の優しさも感じられる描写ではあるのですが。見ようによっては彼女が「夢(空想)」に入り込もうとしてる描写にも感じられます。

「都合のいい夢」が展開されているからこそ、敵との邂逅もみらいにはイレギュラーな展開なのでリコより早く直感的に危険を察知して、逃げを打つ。この辺りはみらいによって物語が動かされている一つの証明なのかもしれません。ここでも「認識」をする瞳のカットが挟まれているのにも注目。

ここから続く三つの画像まとめはAパートでのみらいとリコの邂逅シーンのリフレイン。モフルンがみらいの腕から離れていき、手が届かないところへと飛ばされていく。みらいの表情がかなり深刻な面持ち。仮説での見立てで考えるなら、邂逅の時はふと失いかけたというニュアンスだけど、今度は強制的に風で吹き飛ばされていく。物語の強制力みたいのを感じます。

しかし再びリコが手を伸ばして、モフルンを掴み取る。ここの一連のプロセスは邂逅シーンとまったく同一です。みらい(現実)から「童心」であるところのモフルンが離れていくのをリコ(夢)がしっかりと掴んで、助ける。が、今回は「物語の抵抗」というべきか、さらにリコが敵の襲撃によって、魔法のほうきから、落ちていく。今度は「夢」と「童心」が零れていくのを見て、みらいはどうしたのかというと、ここぞとばかりにリコの手をすぐさま掴んだ。

もちろん助けなきゃって気持ちが先にあるとも思いますが、この場面が印象深い描写になっているのはみらいが「自分の大切なもの」を失いたくないという気持ちもどこか働いているのではないかと。彼女自身の豊かな心を支えているものが「夢」と「童心」であり、それらが「魔法」の源になっているのだとしたらここの描写にもリコを助けるという以外の意味が含まれていることになります。その観点から考えれば、ここも重要な場面だといえます。

ここまでの一連のシーンによって、ピンチに陥る二人ですが。ようやくここでリコの「内側」が画面にフォーカスされます。斜めや逆さのアングルを使って、リコの不安を掻き立てる描写。単身でナシマホウ界へとリンクルストーンを探しにきた彼女の事情は次回以降に見送られますが、みらいとは別軸の「弱さ」を克服することでの「成長」が描かれるのがもうひとつのドラマ。みらいの方が感性的な面を担い、リコは理性的な面を担ってるわけです。

みらいとリコ。筆者としては「二人でひとつ」という印象が強くあります。もちろん各人の問題点は別個に存在はしているのですが、お互いがそれぞれの物語に描かれない部分だと考えるとみらいの裏側はリコだし、リコの裏側はみらいのような気がするのです。だから二人が手をつなぐことには大きな意味があるのだと思います。仮説3の頭の方でも語りましたが、出会うはずのなかったお互いの鏡像が重なり合った瞬間、とても大きな力が生まれ、それが「魔法」になるというのは、このピンチに二人の取った行動でも証明されます。そして、それこそが第1話、かつ作品最大のキーポイントでもあるのです。

引用した画像はヨクバール召喚描写と前の引用場面からの続きで二人がプリキュアになる瞬間、何が起こったのかという描写。これらの画像は比較対応する画像だと断言していいでしょう。ドクロクシー一味はヨクバールを召喚する際に「魔法入りました!」と叫びます。その「魔法入りました!」がプリキュア側にもきちんと発生しているのです。
引用画像を見れば一目瞭然です。魔方陣が重なっていることからも、地球に「魔法が入った」のです。つまりみらいの存在する世界全体に「魔法」が掛かった事になります。ここまでの仮説で展開してきたことを総合すれば、この事態が訪れるまではまだ「みらいの夢(空想)」に過ぎなかったものが「魔法」が地球全体に入ったことによって、ホンモノの現実と成り代わってしまったのです。
それゆえ魔法を唱えた二人の下に、「魔法」そのものが宿ります。その宿り先が元々みらいの「現実」と「夢」を繋げていた存在、つまりモフルンです。下段右のモフルンの瞳のカットに「星」が入ったのは「地球に掛けられた魔法」を繋ぎ止めているから、なのではないかと。と同時にその繋ぎ止めている魔法は実に強大なのも証明しています。ぬいぐるみのモフルンが喋るようになったのもそういった特別な魔法だからこそなのでしょう。

そして、そのモフルンを触媒にして、二人はプリキュアに変身する。第1話にはキチンとその描写も描かれています(引用画像)もちろん「現実」にあったリンクルストーン、「夢」にあったリンクルストーンがあって、それを起動させる「魔法」がないと発動は無理なのでしょうけども、それらが揃ったからこそ、彼女たちにも「魔法が入って」、変身出来るようになったと見るのが正しいように思えます。

さて、みらいが現実へ「引き寄せてきた」夢が、最終的に地球(世界)全体を覆ってしまった事になったわけですが、その「改変」が一番よく現れた場面が1話のラストシーンです。世界全体に魔法が掛けられてしまったために、みらいの存在する現実は夢と「混ざり合って」しまっています。地球に魔法が「入る」前までは、少なくともみらいだけが見ていた「空想」にすぎなかったはずですが、「入った」後は「空想」でもなんでもありません。意味は後からついてくるように、魔法つかいが存在する現実=魔法界が「現実」のものとして、みらいの眼前に広がるのです。そして、ここでもみらいが「確認」したものは存在が「確定する」わけです。
このように見ていくと、みらいによって「改変された世界」で繰り広げられる物語が「魔法つかいプリキュア!」の舞台だと見ることが可能です。が、ここで問題になってくるのは仮説3「物語はみらいの為にある?」ということです。「魔法つかいプリキュア!」の物語そのものが「みらいの成長を描く物語」であるとするならば、みらいの「夢(空想)」によって変えられた「世界」は元に戻らなければなりません。つまり「魔法」は「解かれる」必要があるわけです。
作品を見ていくと、「魔法つかいプリキュア!」の物語には「オズの魔法使い」(作:ボーム)がモチーフとして使われている部分がいくつか存在しています。「オズの魔法使い」も魔法の国に迷い込んだドロシーが元の場所に帰る物語ではありますが、「魔法つかいプリキュア」も同じような筋道をたどるとなれば、みらいは成長の過程で「夢」と「現実」の区別をつける必要が出てきます。つまりリコやモフルンの別れが待っているのではないかと。もちろん「女の子」が「少女」になる時を描くのが物語の主眼であるならば、ですが。
しかし、先のエピソードを見ていけばいくほど、みらいが抱いている望みは「現実問題」として考えると、実現はきわめて難しいもののように思います。9話や23話、あるいは31話でもみらいの願いが一貫して「みんなとずっと一緒に居たい」ということです。夢と現実が未分化のまま、童心を抱えて、ピーターパンのように「永遠の子供」でいられる人間は「現実」にはいません。実際、みらいの見えないところでは学校のクラスメートはもちろん、リコやはーちゃんまでもが成長しているわけで。みらいの願いとは裏腹に、彼女だけ「夢」に囚われ続けている「歪み」が回を重ねていくたびに大きくなっているように思えるのは錯覚ではないはずです。となると、彼女自身が「成長」しなければいかないわけですが、その結論はまだ物語に終わりが見えていないので出すことはできません。ただ第1話を検証すると、みらいの問題点は当初から存在していたと考えられるのです。
同時に今回展開してきた仮説は児童作品によく見られる物語形式、「エヴリデイ・マジック」を「プリキュア」で成立させるためにとった手段でもあると感じています。かつては「魔法少女もの」と呼ばれる一連の物語群の定型だった「エヴリデイ・マジック」。朝日奈みらいが物語と深く結びついているのはこういった「原点回帰」的な流れを汲んでいるためなのでしょう。夢と現実が共存している世界を結んでいるのが魔法で、そんな魔法に結び付いた日々からみらいはどんな成長を遂げるのか、というのを「変身戦闘美少女もの」の流れも汲む「プリキュア」シリーズの物語の主軸に立てたのは大きな挑戦のように思います。それが成功しているかの判断はまだつきませんが、今回の第1話検証で立てた仮説はこの物語構造を成り立たせる大掛かりな仕掛けなのだと思います。そしてそれは今年が「魔法使いサリー」に始まる日本の女児向けアニメ50周年の節目でもあることからも、かなり意識して作られているのではないか、というのが筆者の見解です。

【終わりに】
以上が第1話から考えられる筆者なりの仮説と今後の展開予想です。もちろん物語の展開いかんによっては、仮説のとおり進む可能性は低いでしょう。ここで語った事もただそのように見えるだけで、裏付ける証拠はありません。きわめて穿った見方です。画面上から掬い取れば、このような考え方もひとつ可能であるということ。筆者が本来意図された意味で掬い取らなかったというのもあるでしょう。まあ、火のない所に煙は立たぬともいいます。もしかしたらここで考えた事が本編でも繰り広げられることがあったらいいなあとか、そういう淡い期待も込めつつ、「記録」として記しておきたいなと思い、書くに至ったのでした。まあ、外れてても、恥をかくのは自分だけです。
これだけ長く書いてしまったのは「魔法つかいプリキュア!」に書かせるだけの力が込められている事に他ならないかなと思います。第1話を初めて見たときの「長期シリーズの1話らしい1話」という印象の通り、尻上がりに面白くなっていったので、改めて1話を振り返ると気づかなかった情報が自分の中では多く確認できたのが良かったですし、どう結末をつけるのかどうかというところが俄然気になっています。とりあえずこれが書けたのでぼちぼちとまた追いかければなと。長々となってしまいましたが、「なるほど」と感じていただけたら幸いです。多分、この読み方だと2話以降のエピソードの意味合いもだいぶ違って見えてくると思いますが、さすがに長くなってしまいますので1話だけに留めておきます。というか、再視聴が楽しみになっていただければ、それでいいのかなと思う次第です。
気づけば、今年も二ヶ月足らずです。年内の更新は定期の音楽感想と話数10選を除けばこれが最後になるかもしれません。先のことは分かりませんが、とりあえずここまでがっつりやるのは、これでおしまいかなと。そんなところですね。
それではまた、次の更新で。